もはや新方式


 仮に、ここに50音符号だけを改変して、それ以上の法則は既存のある方式と何ら相違ない試案があるとする。これを何と見るで あろうか。新方式と見なすだろうか。それとも既存方式の域を脱せぬものと見なすだろうか。まるでコウモリ的な方式になりそう である。また50音符号はそのままで、それ以上の法則が、違っている試案があれば、これはどうだろう。50音符号だけが違ってい て、他の諸法則が同じだということは、あり得ないと、簡単には片づけられない。諸法則には改変の余地がないが、50音符号中に はどうも感心しない線があるということは考えられることである。殊に最近のようにいろいろの研究が盛んになると諸法則は大体 似たり寄ったりのものになってくる。今まで禁断の園とされた50音符号に、研究のメスが加えられないと、だれが断言 できよう。こう考えると、新しい方式とか、そうでないとかいう基準は、単に50音符号のみによって判断されてはいけないという 結論が出るのではなかろうか。

 なるほど50音符号で判断するのは、最も手っ取り早いことではある。あたかも人間の顔のようなものである。しかし早い話が、 整形手術などが発達して、同一人でも見違えるような顔立ちになることができる。要は50音符号から諸法則に一貫して流れる「立 案の根本精神」とでもいうものを判断の尺度としなければなるまい。50音符号は同一でも――顔、形は前と変わりなくても、諸法 則が違っている。精神が違ってくれば、もはや新方式だと断ずべきではなかろうか。


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