田鎖3代が積み上げてきた土台の上に成立した 田鎖76年式速記法


 話は戻りますが、田鎖綱紀氏以来の田鎖家は、チャイナ、コリアにも何だか縁 ( ゆかり ) の深い一族だなと、そんなオーラのようなものを何となく感じた りもします。

 そしてまた思いますが、綱紀氏、一氏、源一氏と3代にわたり受け継がれてき たファミリーとしての、速記に対する共通した思いは、やはり、「 速記を国字 もしくはそれに準ずるものにしたい 」 とかいったことではなく、「 より多く の人々が気軽に速記を楽しんでほしい 」 というところに行き着いていたんだろ うと。

 「 より多くの人々が気軽に速記を楽しんでほしい 」 とは、速記使用を愛す る方であれば皆思うことなんでしょうけれども、この田鎖家の思いは尋常ではな かったというか、「 より多くの人々が気軽に速記を楽しんでほしい 」 という 思いに至った過程、段階はとても広く深いものではなかったかと ・・・ そんな ふうに私には感じられるのです。

 さらにまた、他の方式に対する研究、理解度も、綱紀氏のご子息の一氏、お孫 さんの源一氏も含めて、相当に深かったのではないかとも推察します。 あくま でも推察です。

 それに加えて、「 編集能力、全体統括力、物事に対する理解力、バランス感 覚等々 」 に長けた非常に優秀な方々であったとも強く感じます。

 テキストに書かれた速記符号の筆致も、独特な中に研ぎ澄まされた制御力のよ うなものを私は感じ取ります。

 そんな上で、もしかすると 「 速記法の一つのあり方 」 として、「 速記符 号が一番活躍する場面の一つであるべきところの “ 個人使用 ” をメインコン セプト、メインテーマとした場合、速記って、ある意味、このぐらいの方式体系 で済ませるのが程よいのではないか 」 といったような感覚をお持ちだったので はないかと。  ( こういった表現は語弊があるのかもしれませんが、変な意味 を込めるつもりは毛頭ありません。 )

 その感覚は、速記界の他の方面とはまたいささか異なる意味で 「 速記 」 と いうものを背負ってこられた 「 田鎖3代 」 の誇りや思い入れ、使命感、そし て何がしかの確信に近いような自信 ( !? ) さえも伴ったものではなかった のかと ・・・ 。

 76年式、特異な方式かもしれませんが、こういった積み重ねの土台の上でな いと開発し得ない方式であるとは、私は以前から強く強く感じています。

 76年式あたりの符号、もちろん速記符号ではありますが、他の多くの方式と 比較しても微妙に 「 文字的 ( !? ) 」 な感じをも私は受けます。

 使用していてつくづく思い当たる感覚です。

 中根式、早稲田式、石村式、モリタ式、V式などを学習してきた中で、76年 式の特異性も含めてそのように感じます。

 以上はすべて、微妙に説明し切れない 「 人間 」 というものの一人であると ころの私自身の感覚から来るものです。

 その意をすべてプラスに汲み取っていただけると幸いです。