〔関連資料〕
日本最初の速記法
〔日本速記五十年史の補正〕
安 田 勝 蔵
 日本速記五十年史の第一篇日本速記術の起源、第三章代議政治の待望と速記(十九頁九行目)の題下に
 
前掲の第三者以外に知るべき資料が無い、唯神田乃武が英語の速記書を翻訳したことが一部に伝へられて居るに過ぎない。
とある。
 
 五十年史編纂の際に此神田乃武の翻訳したものと謂はれて居る所のものを随分苦心して探したけれども遂に見当たらなかつた。已むを得ず唯さう云ふものがあつたさうだ位のことでお茶を濁されたやうな次第であつた。
 
 所が先頃偶然にも、是が神田乃武が翻訳したと伝へられて居る速記法でなからうかと云ふものを発見した。
 
 それは貴族院速記練習生(十七期)の齋藤行雄氏の親父の本箱から斯んなものが出て来たと言つて見せて呉たのが
神田乃武校訂 黒岩 大 訳補
       日置 益
 議事
 演説 傍聴筆記新法 全
 討論
丸 善 蔵 版
 
と云ふのであつて、其奥付を検べて見ると
明治十五年九月十六日版権免許
明治十六年七月   出版
      高知県士族
訳補者 黒 岩   大
      三重県平民
訳補者 日 置   益
      東京府平民
出版人 丸 家 善 七
とあつて、黒岩と日置の両人が訳補者で、神田乃武は校訂者である。是が誤り伝へられて神田乃武が翻訳したものと云ふことになつたのではなからうかと思ふ。
 
 それは四六版で約九十頁程のもので、目次を見ると
第一章 略字ヲ用ルノ理由
第二章 記号ニ写ス可キ語音ノ事
第三章 記号ヲ語音ニ配当スル事
第四章 実用ニ就ヒテノ指示
第五章 記号連続ノ法
第六章 習熟ノ法
第七章 同音ノ連用並ニ逼音ノ事
第八章 短句ノ筆記
第九章 結局ノ教訓
 
 以上のやうなものであつて、其内容は今日の進歩せる速記法上より眺めると何等参考に資する程の価値のあるものではないが、兎に角珍書たることを失はぬ。
 
 勿論此黒岩・日置両氏の傍聴筆記新法と云ふものゝあつたことは、私の主幹して居つた菅公会誌第十六号(大正四年二月一日発行)に田鎖綱紀氏の談中に
 
(前略)是等の外に老生が方式と全然違つて居るものは黒岩大、日置益両氏共著の「傍聴筆記新法」といふものが出た、是は亜米利加のリンズレー式を模倣したものに過ぎないもので、之を刊行するに先立つて老生が門生たりし森田荘蔵を介して老生に此原稿を買つてくれと云うて来たことがあつた云々
 
とあり、又其後大正六七年の頃発行された日本百科大辞典にも
 
(前略)これと前後して黒岩大・日置益の両人はアメリカのリンヅリ式に基きて同年七月傍聴筆記新法といへる一書を公にしたり
 
とだけあつて、そんなものがあつたさうだ位のことは知つて居たけれども、其内容が如何なるものなりしやに就ては何等知る由もなく遺憾として居つたが、今日偲然にもそれを発見することが出来たのである。
 
 扨此傍聴筆記新法の訳補者の一人、黒岩大と云ふのは、嘗て田鎖綱紀氏から伺つたことがあるが、黒岩オホシと訓むのださうであつて、其号涙香を以て名高い黒岩周六と同一人だと云ふことである。
 
 同訳補者の日置益は後に大正三年から五年まで支那の特命全権公使であり同九年から十三年まで独逸の大使となつた人である。
 
 又校訂者たる神田乃武は、後に貴族院議員になつたとか、男爵を授けられた人だと云ふやうなことよりも、英語界のオーソリチーとして誰知らぬ人はない程有名な人であつた。
 
 之等の有名な三人が協力して著はされたのが此傍聴筆記新法である。而も是が出版は明治十六年七月であるが、其版権免許を得たのが明治十五年九月十六日である。さうして又其序文は嘗て明治の速記界に有名であつた速記者泣せ五人男の一人辻新次が明治十五年十一月付で書いたものが載つて居る。さうすると田鎖綱紀氏が日本傍聴筆記法と題して時事新報に発表したのが明治十五年九月十九日であるから、此傍聴筆記新法が出版されたのは翌十六年であつてもその版権免許を得たのは、田鎖綱紀氏の発表の日より既に四日以前の十六日のことである。縦しそれが四日以前であらうが又後であらうが問題ではないが、唯当時田鎖氏と殆ど同時に今日の所謂速記法を研究して既に其書を著はした人のあつたこと、而もそれが日本速記法の著書として世に公けにされた一番最初のもので、歴史的珍書であることを明かにして「日本速記五十年史」補正の史料として紹介する次第である。
 
(原文のまま、漢字のみ新漢字)
出典:日本速記協会機関誌「日本の速記」昭和11年3月号
 
 
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