第14話〔昭和35年4月号 No.46〕
学習興味を盛り込んだ初心者への速記指導
 開講一番に、すべての前置きを抜きにして、「ソッキ」という速記文字を視覚に訴えて教えられた会衆は、生まれて初めてみる魅力的な不思議な文字に、食い入るように引きつけられるのであった。そして、「ソッキ」と「ソキ」の2通りの速記文字を、「発音運筆法」(前記)によって。自然に会得させることができた。
 そこでわたしは、すかさず、
 「カナなら、ソとキの間に小さいッを挟まなければならないのに、速記文字では、ソと
キを交差することによって、詰まる音をあらわします。書かないで読む。速記の速くて便利なことがわかるでしょう」
というようにまとめていった。皆は頭をタテに動かして「合点合点」をやっている。
 黒板に「日記、筆記、雑記……」というように漢字を並べる。
 「こういう字も、ニ、ヒ、ザの字がわかったら、速記文字で大丈夫書けるでしょう」
 さらに、黒板に「活気、国旗、発起」と拾い書きをする。
 期待どおり、質問の手が挙がる。
 「お尋ねします。日記と活気はキが違いますが、どうして区別しますか、それでよいのですか」
 漢字における最大欠点である「同音異字」を指摘し、音標文字の1つである速記文字が、
どう受け取るかを問う質問である。
 「なるほど、鋭い質問です。前にも実演しましたように、速記文字は、発音式の文字ですから、漢字ではどんな字であろうとも、キと発音するものは、すべて同じキという速記文字であらわします。キが違っていても差し支えないのです。」(大笑い)
 日本語をたやすくして、聞き言葉を多く使うことが要求されている問題は、ここであっさりと扱うことにする。何となれば、こうしたことに関心の遠い人達も相当多いから。
 詰まる音は、終わりにキがつくものとは限らない。「結婚、脚気、月賦、失敗、キッス……」など何でもござれ、自由に書けることを話す。やんやと喜ぶ。
 ここまでくると、皆が何を求めて入るかがはっきりする。
 (ニ、ヒ、ザやカ、コ、ホの字を知って、日記、筆記、雑記や、活気、国旗、発起という字を書きたい。)
 (脚気、月賦、キッスを書くには、カ、ケ、プ、スの字がわかればよい。結婚、失敗などは手ごわいぞ)
 意欲はクライマックスに達した。
 「早くアイウエオを教えてください」……全員一致の声である。
 衆望にこたえて2枚の図表を取り出す。まず1枚は、カタカナの50音図である。上の端をピンでとめておき、しずしずと、開いていくに従って、あらわれてきたのはアイウエオである。第2段はカキクケコ……下まで開いてピンでとめる。
 皆は一杯食わされたという顔つき。だが、わたしが棒でつきながら読んでみせると、これまた、初めての経験に触れるのであった。
 1.ヨコ書きのアイウエオは見初めであり、新しい感じがすること。
 2.ヤ行のイエが抜いてあること。
3.ワ行は、ワだけしか書いていない。ヰやヱがなくなっていることはわかるが、ヲの字がなくてもよいのだろうかということ。
 こんな平凡なことでさえ案外、新鮮味を与えるものだなと、わたしも幾分不思議に感じたほどである。
 「何や、1年生みたいや」と一笑した人も、つくづく考えてみると、昔のままのアイウエオとは違う、新しいスタイルのアイウエオであることを悟るのであった。
 いよいよ、お待ちかねの2枚目の図表。速記のアイウエオのご開帳?となる。戦前の教育勅語をひもとく校長先生の手元さながら、もったいぶっておもむろに開く。皆の目が集中して息詰まるような空気が漂う。
 しばしば、見とれているばかりである。やがて指先で、遠い自分の席からなでるマネをする。そして、相談したようにノートが始まる。
 わたしは、初めから正しく書けるはずがないことを百も承知しながら、それを制することなく、彼らの筆記欲のままに放任しておいた。
 「皆さん、速記文字は、長短、直曲、太細、傾斜度などの線で構成されているのですから、ノートをしてもダメです。後で正しく書いたプリントを上げますから、筆記はよしなさい」などと言うだけヤボである。
 論語にある孔子の教育原理を応用した教え方。それはこの次に。
 
第15話〔昭和35年5月号 No.47〕
“特例の数と普及成績とは反比例する”
 基本文字の発表という段階にまでやってきた。会衆は食い入るように、これに引きつけられている。しばらくは会衆がなすがままにしておくことにした。(前号はここまで)
 思い出1つ。わたしは、学童を連れて動物園で学習指導した経験がある。門をくぐると、
園長さんのお話しを拝聴さそうと努力しても、子供達の目は、猿やキリンの方に引っ張られて、じたばたしている。こんなときには、あっさりと、彼らの欲求のままに放任してやるに限る。
               ×  ×  ×  ×
 基本文字表と言えば、特にご存じのとおり。わたしは、ズブの初心者に説明するために、
少し変わった基本文字表をつくってみた。試みにやってみたことが、実際には、とても効果的で、会衆には非常に受取がよかったように思う。
 それは、中根式で行われているものを「完全基本文字表」というならば、わたしの、ただいま扱ったものは、「不完全基本文字表」である。何だか難しいことになりそうだが、種を明かせば「クツフユ抜きのアイウエオ表」である。
 昔の国定読本には、ヤ行でもイエの字を入れて、ヤイユエヨとしてあった。中根式では、
ヤ行はヤユヨとして、イとエは抜いてある。ワ行はワの字だけなことはもちろんである。
 わたしは、さらに、クツフユの4字をわざと書かないであけておいた。皆さんは、わたしが、何を意図しているかを、ご賢察くださると思う。説明しやすくするためと、学習しやすくするためとにほかならない。
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 基本文字の構成を説明するときに、ア列×2=オ列、イ列×2=エ列、オ列+点=ウ列……という当たりは中根式お得意の場面である。教える者も習う者も、感激のたけなわと言ってよかろう。
 ところが、カ行のキと、タ行のチは「反対の法則」に多少の無理(カの反対は正しくはチとしたい)があろうことも、まず切り抜けられるとして、カ行のクの字、タ行のツの字、
ハ行のフ、ヤ行のユとなると、一本調子にすらすらと、お家芸を振り回すワケには行かぬ。
「晴れ、後曇り」と言えば、大層だが、初め、手放しで喝采していた連中も目をしょぼしょぼさしているのを見逃すわけにはいかない。
 こうなると、せっかく簡単で、たやすく、したがって覚えやすいと思って、血をわかしている会衆の頭に、多少の疑問をいだかせることになる。
 初め、「ソッキ」という速記文字を、たちどころに覚えてしまった会衆は、今、何でも書けるようになったため、基本文字を欲求して飛びついてきているのである。
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 この熱意と感激を冷やしてはならない。それがために、クツフユの4字だけは、穴のあいたまま、伏せ字としておき。この4字はアトのお楽しみにと軽くタナに上げてしまう。こうして、「特例の存しない基本文字表」によって、法則を自由自在に使って、一点の疑問をもいだかせないように、納得させる。これで基本文字40字を、余り苦労なしに、笑いながらキャッチさせることができる。
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 基本文字は、法則さえのみ込んでおれば、忘れようとしても忘れることができない、といっても言い過ぎではない。この鉄則をとおすためにも、特別文字の4字をしばらく別に伏せておく方が、規則的な文字を覚えるには、すばらしく便利である。後の4字を次の段階で、懇ろに取り扱うことにする。
 こうして基本文字の91%を占める規則的な文字を、手軽に、覚え込んだ後、後の4字を覚える方が、頭の負担も少ないし、印象的につかみ得るようである。結局、44字をまぜて扱うよりも、分けて扱う方が、負担に要するエネルギーの和は、少なくて済む、と断言してよいことになる。
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 特別文字の少ないことが、普及の上に、いかに有効であるかは、多くの実際例で示すことができる。
 明治、大正、昭和三代にわたるローマ字運動は、普及のための運動ではなくして、ヘボン式か日本式かの派閥争いの歴史であったではないか。
 英語の複数形は、sまたはesを加えてつくるほかに、下規則的なつくり方がおびただしく行われていて、学習者を苦しめている。
 エスペラントでは、語尾にjの字を1つ加えるだけで、複数形のすべてとなり、例外は絶対に存しない。
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 こう考えてくると、何事によらず、「特例の数と、普及の成績とは反比例する」ことに気がつく。つまり、「ただし書き」の多い条文は、とかく、ややこしいと同じことではあるまいか。
国民皆速記の指導原理の1つが、この辺にも潜んでいる。
 
第16話〔昭和35年6月号 No.48〕
教え過ぎないで、説明は簡素にして徹底をはかる
 初歩の人達に速記を教える仕方はどんなのがよいか、ということは、一概に言えない。
 第1、速記の学究的な研究家や、速記の指導者になる人を養成するためには、理論と実際すなわち、速記の正しい書き方や、運筆の要領など、そして速記に関する知識も、比較的多く授ける必要があろう。
 第2、これとは違って、将来、速記を扱うことによって、生計を立てていくような人−「専門速記家」には、むしろ速記の能率的な技術を授ける必要がある。こういう人達には、
高率的な特殊技法などが、割合多く要求されるのではあるまいか。そのかわり、速記の理論や知識などは、お添えもの扱いになるとも、やむを得まいと思う。
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 第3、わたしの主張している国民皆速記としての速記、すなわち「教養としての速記」である。これになると、必ずしも、石にかじりついても、速記を我が物にせねばならぬ、というような深刻さがあるわけではない。したがって初めから、盛りだくさんに並べると、
感心の程度を通り越して、ややこしい、難しい、との複雑感に圧倒されてしまう。
 この人達は、「おもしろければ習ってみよう」という、条件つきの立場にいるのである。
だから、相手の欲求や心理を読み取って、「教育過剰」にならぬことが大切である。
               ×  ×  ×  ×
 速記に対する関心の度合いは、人によってまちまちである。会衆の中には、頭のハシカもいるから、それらの人達は、調子よく講義に乗ってきて、理解も早い。けれどもこれらは一部の人達にすぎない。こんな優等生に引きずられて、どんどん講義を進めて入ると、他の多くの者は、いつしか取り残されて、ポカンとしている。回を重ねるに従って、フンイキが冷えてきて、落伍者の続出となる。これでは、国民皆速記の考え方に沿わないではないか。
 専門的な技術者の養成に苦労しておられる方々からご覧になると、間ぬるくさいように思われるだろうが、相手を見て法を説くことが、効果的であることはお察しいただけると思う。
               ×  ×  ×  ×
 さて、この辺で、また例によって具体案に触れることにしたい。
 これまでに、「ソッキ」という速記文字を、興味本位に、出発の動機としてみせておいて、
次には「不完全基本文字表」つまり「クツフユ抜き」のものを、ひとまず教えたわけである。
 今度は、イヤでも「クツフユ」を教えねばならぬ。クツフユの4字を、基本文字構成の規則から除外して、特別に設定するからには、そこには速記上、深い理由がある、というようなことを、初心者に説いてみたところで、頭が痛いばかりであろうから、そこは、あっさりと、機械的に覚えさせることにする。わずか4字だけのことであるから……。
               ×  ×  ×  ×
 ここで、基本文字−50音(実は44字)の書き方の要領を取りまとめて説明しておく。ただし、それは、必要最小限にとどめておき、実際に書いてみるうちに、疑問にぶつかるのを待つことにする。その要点 −
1.アイウエオフツは下から上へ(左から右へ)書くこと。これは基本文字書き方要領の筆頭に位するほど重要なことである。指導に際して、最も多い誤りがこれである。
2.大きい字と小さい字(長い字と短い字)の区別をはっきり書きあらわすこと。初歩の人の字を見ると、長い線は短い線の1.5倍くらいになるのが多い。2倍以上にするつもりでちょうどよいかげんになる。
3.太い線の字はどれかをはっきりし、判別がつくようにあらわす。これは運筆方法に要領があることを実地に指導する。
               ×  ×  ×  ×
4.ア列×2=オ列……の規則は学習する上にも重宝であるから、興味を盛り上げるように指導する。
5.濁音、半濁音は、ぜひ必要な場合に限って使うこととし、なるべく省くようにする。「電報書き」のコツを使う。なお、「ヅ」の字は、初めから、ないものとして片づけてしまう。
6.「カコ、チチ、ケイサツ、ハヤシ、アラキ、オヤコ」などの書き方は、なるべく、工夫によって発見させるように導く。
7.「ン」は非常に必要な音であるから、書き方を例によって教えておくが、円の大きさやつける側は、この段階ではやかましく言わない。
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 以上のうちの数カ条は、学習者の理解の様子に応じ、質問を待って答えてもよい。そして答えもズバリと出さずに、逆に尋ねてみて、共同討議などをさしたりして正しい結論へ誘うようにするのがよさそうである。
 とにかく、食べさし過ぎると、不消化を起こしやすいもの。習う人の、頭の簡素化を考えて、徹底を期したい。
 
第17話〔昭和35年7月号 No.49〕
論語に学ぶ…憤せざれば啓せず、排せざれば発せず
 「論語読みの論語知らず」ということわざは、どなたもご存じだと思うが、その「論語」の中に、次のような一節がある。
 「子曰く、憤せざれば啓せず、排せざれば発せず。一隅を挙ぐるに、三隅を以って反さざれば、すなわちまたせず」(術而第七)
 原文はもちろん漢文です。こんなカビ臭い漢書などを引っ張り出してくるとは、時代おくれも甚だしい、とセセラ笑っている方があるかもしれない。よく味わってみるとさすが、
孔子の言葉だけあって、2,500年の今日、心理はサン然として輝いているのである。
               ×  ×  ×  ×
 胸のうちでは、ほとんどわかっているが、どうも、口ごもって、言いあらわせない。そのことが、顔かたちにうかがわれる。そこまでくると、先生たる孔子は、弟子に対して初めてヒントを与えてやる。また、1つのことを教えてみて、3つのことまで答えるというくらいでなければ、次のことは教えない。
 大体、こういう意味かと思う。これは一見、いかにも不親切な教え方のようにもとれるが、孔子の真意としては、弟子の理解力に応じて、導いていく。よくわかってもいないのに、次から次へ、詰め込んでもムダであるし、弟子としても迷惑であり、やがては学問が嫌になり、身についた教えにならない、ということを戒められたものと思う。
 話が古いところへ行ってしまったが学ぶところがあるなら、論語だって一概に毛嫌いすることはないと言いたい。先年亡くなったアメリカの哲学者、ジョン・デューイは、現代教育界最大の指導者であったが、この人の原理が、孔子の教えと通ずるところが、すこぶる多いのもおもしろいことではないか。
               ×  ×  ×  ×
 これまで、わたしの述べてきたところをお読みくださった方は、こういうことが、速記の指導原理として、多分に、取り入れてあることを、お察しくださったことと思う。
 そして、これは単に速記の指導だけではなく、およそ、教育の一般に共通する原理の1つではないかと思うのである。殊に、一般社会人が、教養の1つとして、速記を習ってみようか、という場合、いつまでに、どこまで、覚えねばならぬ、というような、厳しい目標があるわけでなく、ましてや、職業として、是が非でも身につけねばならぬというような、緊迫感もないのだから、指導の要領も、やすいようで、しかも難しいものと申したい。
               ×  ×  ×  ×
 前の号までに、基本文字の指導要領について、わたしの方法を述べてきたが、それは、ご覧のとおり、必ずしも、事細かに説明してはいない。正直なところ、あれだけの注意書きで、基本文字を書くならば、恐らく、疑問にぶつかることが、少なくないはずである。
 それかといって、細大漏らさず、最初に、説明するならば、そのことだけで、ややこしくて、「さてさて、難しいものかな!」というタメ息をつかせることにならぬとも限らぬ。
 疑問にぶつからせるのは、わざと、そのようにして、習うものの側に、活動の余地を与えてあるのである。その落とし穴に気づかずして、素通りするようでは、ほんとにわかったとは言えない。
               ×  ×  ×  ×
 例えば「ケイサツ」と書いてみると、なかなかうまく書けないのが普通である。そこでいろいろ書いてみて自分としての結論を握って先生に質問する。そこでこれを取り上げて、
指導すればよいのだが、さらに有効にして、興味を盛り上げるならば、「類似の書き方要領」を要する名前などを例題にして書かせてみる。それも、同学のものの中から取材したものがよいだろう。
 −ハヤシ、ヨシオ、ソラタ、イサム、キサラズ……
 こうなると、自分に縁の近い例題に取り組んで、懸命になってくる。1題に数人のグループが取り組む場合もあろう。ありったけのチエを絞って考えた結果には、どこかに正しい答えが出ているかもしれないが、完全な結論には達していない。
 論語に言う憤せざれば啓せず排せざれば発せずである。このあたりで、先生!おもむろに啓発すれば、一語千金生徒の喜ぶこと!そして、自力で回答を出した者は成功の鼻高々。
少しはずれた者も「当たらずと言えども遠からず」で、これも得意満面!
               ×  ×  ×  ×
 ここに問題がある。要は、教え過ぎぬようにして、習う側からの活動を待つというのであるが、こちらの思うところへ乗ってきてくれなければダメである。胃を壊さぬよう、時には、ごちそうを出すことを考えねばなるまい。
 
第18話〔昭和35年9月号 No.51〕
基本文字の取り扱い。徹底的練習の一本やりでよいのか。そこに問題がある
 −ここで、一言ごあいさつ。わたしのような素人が「国民皆速記運動」という大きな題目を掲げて、論文ともつかないものを書いておりますが、回数だけは、大分長くなりました。 
 これも江森(※武)編集長が貴重なページを割きカットまでつけて優遇してくださるせいでもあり、読者の皆さんのご支援によるものと感謝しております。
 殊に、感激にたえないのは、おなじみの「月例読後記」の名物男、岐阜の熊田(※力三郎)先生です。チクリと針でつついてみたり、甘いお乳を含ませたりして、筆者と読者の間を、巧みな健筆で指導される。先生ならではの領域です。
 「……くださいますよう、全国の読者、指導者にかわってお願い申し上げたいと思います。」と仰せいただいては、額に汗して、奮起しなくてはなりません。わたしの無軌道な意見が、「速記時代」本来の使命に添うているや否や、独断が多いだけに、異論も少なくなかろうと思います。要は、「素人の場」としての大衆論が「標題」に対して、幾らかでも説明になり、内容になればとの願いにほかなりません。今後とも皆さんからの、一層のご指導をお願いいたします−
               ×  ×  ×  ×
 さて、次の話題として、取り上げたいのは、
 「基礎学習をどのように取り扱うべきか果たして、徹底的練習の一本やりでよいのか、基礎学習に対して、応用学習をどう配合すべきか」
 といったようなことです。
 およそ、何事によらず、基礎が大事なことは、万人共通に認めている鉄則です。あらゆる学問、技術、芸能……において、基礎の貧富、強弱、大小などが、将来の成績に大いに影響すること、疑いを挟む余地がありません。
 「速記学習」の場合も、例外であろうはずがなく、基礎が大切と考えねばならぬと思います。
 それでは、速記を学習する場合「基礎」とは、
 1.何を指すのでしょうか。
 2.どの範囲を指すのでしょうか。
 3.どの程度を指すのでしょうか。
 基礎という言葉は、
 「基礎をしっかりかためておかないと後で困るから……基礎ができていないと将来苦しまねばならぬから……」
 などと、気軽く使っていますが、改まって自問自答してみると、わかったようでもあり、
わからんようでもありますね。
               ×  ×  ×  ×
 考えてみましょう。「アイウエオ」を知らなければ、全然書けない。これは問題なしに基礎でしょう。「濁音半濁音」やンの字も知らなければなりますまい。「長音」も知らねば不自由ですし、「拗音」も覚えておけば重宝です。このくらいは、基礎的なものに数えたいものです。
 また、観点を変えて考えてみましょう。基本文字における、長短、曲直、太細、方向、こういうものも基礎だと言っても、間違いないはずです。
 やがては、速記文字全体を知り尽くすことが基礎であるという見方も成り立つかもしれません。もっと飛躍的に考えるならば、当用漢字を我が物にすることや、仮名遣いや送り仮名を使いこなすことでさえ広い意味では、基礎であると見てもおかしいとは断言できません。
 なぜならば、小学校で習うことは、すべてが教育の基礎であり、中学校も義務教育である以上、もちろん、基礎の教育をしているのですから。
               ×  ×  ×  ×
 「初歩時代における、比較的少ない技能が、将来、最大無限に発展するもとになるもの」……定義らしいものはできませんが、基礎学習をこんなふうに考えてみてはどうでしょう。
 さて、実際、それに当たる具体的な「基礎学習材料」はどのように設定しましょうか。それは、
 第1段階。基本文字、濁音、ン、
 第2段階。長音、拗音、
 余り欲張らないで、このくらいでどうでしょう。
 この場合でも、第1段階と第2段階とは単なる序列と見ないで、第1にウンと重点をおく。第1がほとんど習得できたら、第2に進んでいく。それも、急ぐことなしに。
               ×  ×  ×  ×
 いよいよ基本文字の習得となりましたが、明けても暮れてもアイウエオでは、よほどな覚悟の人は例外。おもしろければやってみようという人々なら、おそらく3日坊主で逃げ出すのではないかと思います。「親の心子知らず」などと言ってみても、かわいそうですし不親切なようでもあります。
 「基本文字の徹底的練習の一本やり」−それは、果たして最良の方法なのでしょうか。
 
第19話〔昭和35年10月号 No.52〕
基本文字の「系統書き」で、正しい文字を覚える
 速記の実力をつけるためには、基礎学習が絶対に必要であることは、速記を教える者も、
学ぶ者も、ともに痛切に感じることであります。それがためにこそ、基礎学習がやかましく要求されるのであります。そして、わたしは、素人として速記を始めるに当たったの、速記学習の材料、すなわち対象に、第1段階としては「基本文字、濁音、ン」としてみてはどうだろうかと、前回に述べたのでありました。
 速記文字がいかに簡単にできているかは、一見すれば、直ちにわかることです。漢字に比べて、カナは大変やすいですが、さらに速記文字となると、またまた、はるかに簡単です。どの文字にしても、1本の線だけ(点を持っているものは例外)で、できているのですから、いかにも簡単です。
 だが、それは、視覚に訴えたいときには、そうでありますけれども、いざ、「書く、読む」となると、いささか勝手が違ってくるようです。それが速記文字の「やすそうで、難しい」点ではありますまいか。
               ×  ×  ×  ×
 基礎学習の必要なことは、こういう点にもあるようです。ですから、基本文字というものが、どんなものか一通りわかったら、練習に専念せねばなりません。練習なくして、上達する道は絶対にないと言ってもよかろうと思います。「1にも練習、2にも練習」です。
 この方法を、少し理屈っぽく申しますと、「反復練習の原理」ということになります。比較的単一な作業を、繰り返し繰り返しやりますと、初めのうちは、意識が強く働いて、神経を使いますから疲労が多いのが、なれてくるに従って、楽になってきて、しかも、上手にできる、早くできる。このことは、速記に限らず、知能的なものから、身体的な動作にまで、共通しております。
 わたしは、小学生のとき、日本の天皇さんの名前を、全部暗記しました。中学では、支那の年代を一息に唱えました。大きい呼吸になります。京の町づくしは、母に教わったのですが、今なお便利です。これも反復練習のご利益かと笑っております。
 反復練習によって、我が物とすると、もうしめたものです。ほとんど労することなしにやってのけられますから。
 小学1年の子が「む」の字を思い出すのに何十秒もかかっているのに、いつの間にか、マンガを読みふけるようになっています。これも練習のたまものでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 それでは、速記の基本文字の練習はどんなにすればよいか。始めは一応わかったと言っても、説明として理解したにすぎないのです。そこで、練習の順序として、まず、
 第1、手本を見ながら書く。
 これは、正しい文字を習得させるためであって、非常に効果があるように思います。もちろん、速度などは全然無視して、ただ、正しく書くことを、一意専心これに努める。といった書き方です。教授用の大きな張り紙だけでなく、初心者が、そのまま「敷き写し」にしてもよいくらいな「正しさ」と「大きさ」を備えたものがよさそうです。ただし、大きさは初心者の運筆能力の点から、少し大きめにするのが要領でしょう。指導者が、「最終的に書かせたい理想の大きさ」よりも、やや大きい手本がよいかという意味です。
 この段階では、基本文字は、もちろん「50音表の形」で練習をします。アイウエオ、2行目にカキ……のように。ここで基本文字の1字1字が、正しく書けていて、変なクセを持たないように指導します。習得の程度によって、手本を少なく見るようになりましょうが、手本軽視になってはなりません。そこは自然に任せます。
               ×  ×  ×  ×
 次には、50音表の形で、タテ書きにアカサタナ……の順にします。これになると、大分難しくなります。よくわかっているはずなのに、手本をのぞきたがります。しかし、とがめなくてもよいでしょう。恥ずかしがらないように扱います。なぜかといえば以上2とおりの練習は、基本文字を正しく書くことを、身につけるのが目的だからです。やがて、アカサタナも、タテ書きになれてきたら、ヨコ書きに移ります。それは速記の書き方本来の形だからです。
 さて、基本文字を、「行別書き」(アイウエオ順)にする場合には、
 「ア×2=オ」……の法則
が働きますし、「列別書き」(アカサタナ順)の場合には、
 「小字、大字、加点字」の法則が働きます。
 このように、行別や列別に、一定の順序に従って練習するのを、「系統練習」と唱えてみます。
 この系統練習を徹底することによって、次の過程の、「無系統練習」へ発展させたいと思うのであります。
 
第20話〔昭和35年11月号 No.53〕
基本文字の「系列練習」から「無系列練習」へ
 この前には基本文字の「行別練習」と「列別練習」をすること、それは正しく書くことの基礎学習であるから速度は無視してもよい。あくまでも、正確な基本文字を身につけるのが目的である。ことを強調しました。そしてこの書き順が、一定の形……50音表をなしているから、「系列練習」と申しました。
 今度は、それより、一歩進んだ段階へ移ることになります。その練習教材には、「イロハ」がよかろうと思います。イロハ順ですと、アの字が出てくると、イウエオが出てきやすいということもなし、ウ列の字は、点を持っているという法則などもありません。つまり50音をバラバラに、まぜかえしたようなものです。1字1字が孤立した存在です。このようなものの練習法を、「無系列練習」と呼んでおきましょう。
               ×  ×  ×  ×
 無系列練習となりますと、隣接文字の相互間に、全く関連性がありませんから、書く上に、大変抵抗を感じます。この抵抗と闘いながらながらイロハを書く。ただし、手本を見てはいけないとは言わない。だが、手本といっても、50音表の形のものだけとして、イロハ順の手本は厳禁とします。なぜなら、ここでは、正しく書くことのほかに、「思い出して書く」という、重要な条件を持たせているからです。このことは同時に、「文字を覚える」ことと表裏をなすものです。覚えておかねば思い出せない。50音表の中から、一々探していては、余りにも面倒である。思い出して書くことが、強く要求されてきます。
               ×  ×  ×  ×
 系列練習、殊にアイウ順では系列の法則が、大きく働きますから、自分の実力を過信しやすいようです。ややもすれば、個々の字が、何という字であるかをも確認しないで、機械的に書くことさえあります。そのために書く割合に覚えられていない。空回りというのでしょうか。
 それでも、アカサ順ともなりますとアの字からカの字を、導き出すことができないから、
思い出すのにホネが折れます。イロハが、さらに難しいのは、前にも述べたとおりです。だから、仮に、
 「50音が1分間に2回書ける」
と言っても、これを直ちに、
 「100字の実力がある」
とは、評価できないのは当然のこと。完全な無系列な書き方で100字書けてこそ。100字の実力があると認めてよいでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 ここで、ある初心者の能力を、参考のために調べてみますと、
 第1.アイウ順、100字以上でも
 第2.アカサ順、50字くらい、
 第3.イロハ順、25字くらい、
 第4.完全無系列、15字くらい。
 こういう実力ですから、アイウ順の100字で得意になっていても、イロハ順となれば、その4分の1になり、さらに完全無系列になれば、またまた低下する。この現実に対しては、
だれしも気を落とすでしょうが、「おのれを知る」ことが将来伸びていくもとですから、今後の発奮を促すよう激励してやるべきでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 さて、イロハ順といっても、文字構成上の系列はありませんが、これを繰り返しておりますと、文字の出てくる順番になれてくるし、文字相互の関係も生まれてきます。
 例えば、「オクヤマケフ……」が来たとします。それが、自分に関連ある名前や地名であったりして、「奥山」という、親しみある「一連のコトバ」として迎えることになります。そこへ来ると「おいでましたかな」といった調子に、自然と能率が上がるものです。同じ4字でも「オクヤマ=奥山」は、速く書けるが、「オヤクマ=親熊」が、突然飛び出したら、
ちょっとまごつくことでしょう。「奥山」に似たような取り組みが、次に次にあらわれてくることでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 イロハ順は、相当、程度の高い教材ではありますが、イロハ順に書くことだけが、速記のすべてではありません。基本文字の1字1字を、自由自在に使いこなす実力を養うとならば、いつまでもイロハばかりに、頼ってはいられないでしょう。
 「完全な無系列練習」の教材は、以上のようなものではなく、全く別なものでなくてはなりません。新しく考えられる教材は、
 1.文意を持たない基本文字の連続配置したもの。
 2.文意を持っていてもよい、平易な単語または短文の連続配置したもの。
 3.平易な文章。
などであって、しかも、余り、繰り返して使わぬことです。
 なお、難しい文章、つまり漢字の多い文章は、インツクキ練習のときに活用し、基本文字の練習には、「カナコトバの多い童話」などの方が、はるかに効果的なように思いますが、
いかがでしょうか。
 
第21話〔昭和35年12月号 No.54〕
「覚える段階」と「筆意運指法」…頭と指先との連結
 江戸時代の学者、新井白石の勉励ぶりは有名なものですが、その伝記によりますと、次のように書かれています。
 「年7歳にして芝居の口上をことごとく暗記した」
 これだけの記憶力があれば、速記競技大会の1分間読み上げなどは、漏れなく暗記できたでしょうから、優勝間違いなしというところ。さらに、
 「9歳ごろから日課を立てて字を習い、昼は3,000字、夜は1,000字を必ず書いた。夜眠くなると、寒夜でも水を浴びて、精進勉励した」
 昔のことですから、鉛筆のなぐり書きでなく、恐らく、机の前に端座して、1字1字に魂を打ち込んで、毛筆で丁寧に習ったに違いありません。「千字文」という本は、ご承知のとおり1,000字の漢字からできていますが、これを毎日4冊書くことになるのですから、大したものです。
               ×  ×  ×  ×
 わたしは、この精進勉励型の白石を引き合いに出して、みんなが白石になれと言うのではありません。我々凡人にしてみれば、こんなプランを立ててみたところで、3日坊主に終わってしまうこと、受け合いだからです。
 「良薬は口に苦し」ということわざも、今日では通用しなくなりました。「せんぶり」や「だらにすけ」は、苦いものの代表ですが、それでさえ、巧みに加工されて、赤ん坊がお菓子のように欲しがるくらいになったではありませんか。「苦いほどよく効く」ということは、真理ではなくなりました。同じことなら、嫌々飲まさないで、笑顔で飲んでくれるようにしたいものですね。
               ×  ×  ×  ×
 速記の練習について、前号では、基本文字を徹底的に習得するために「系列練習」と「不系列練習」の方法に従い、その教材としては、漢語の少ない文章−例えば童話などが適当ではないかと申しました。
 さて、練習と言えば、紙と鉛筆が使われるので、もちろんこの方法が主要な位置を占めるのですが、これだけが方法のすべてではありません。
 来る日も来る日も、紙と鉛筆とで、千編一律にやっていては、単調で仕方がありません。
疲労は募り、興味は薄らぎ、意欲は減退して、早くも棒折れしそうになります。
 また、習得の過程を見ますに「覚える段階」、「書く段階」というように、はっきり区切りのあるものではなく、覚えたつもりでも、すぐ字形が浮かんでこなければ、完全に覚えたとは言えないでしょう。だから、「字形を思い出す練習」と「書く練習」とは、交互作用をなしつつ発展するものだ、こう考えなければなりません。
               ×  ×  ×  ×
 中根先生創案の「速記体操」は、字形を確実につかむ名案だと思います。「しかも、体操になって健康に役立つ」と先生はおっしゃる。なるほど!幸い基本文字が単画ですからちょうどよい。基本文字を覚え切ってからでも実行したいものです。速記人は胸を抑えて姿勢を悪くしやすいですから、確かに健康によろしい。また、気分の転換で、頭の体操にもなりますものね。
 次には、これも先生の創案。「基本文字カード」です。英語の単語カードのように使えますから、個人の実力に合わせて、おもしろく自習することができます。また、「速記カルタ」をつくって、集団で、愉快に練習することもできます。
               ×  ×  ×  ×
 ここで。わたしも、創案?の1つをご披露に及ばねばならんことになりました。さて、エヘン!と言っても笑わないでください。わたしの方法は、紙も鉛筆も要らんという、至極ずるい方法のようですが、名づけまして、これを「筆意運指法」と申します。
 道具は、ただ指1本。立っていても座っていても、寝転んでいても、暗がりでもできる。
お風呂の中でも、歩きながらでもできる、という便利重宝な方法です。
 つまり、指先で、速記文字を書く運動をする。線の長短、太細は、そのつもりで動かせばよい。わたしは初歩時代、歩きながら、この方法で練習しました。寒い日はポケットの中でやりました。初めはアイウエオを書くのに、1字1歩が難しく、行のかわり目は5歩も10歩もかかりましたが、なれてくると、1歩で1行5字が書けるようになりました。
               ×  ×  ×  ×
 初めは、指の運動が、比較的大きい。それがだんだん、小さい運動になってくる。さらに、指が動いているのかいないのかわからぬくらいになる。そして最後には、ほとんど、無意識に近いような、観念的に書いているようになってくるのです。頭の働きと指先の運動とが、練習によって強く連結されるようです。この過程はもっと学的に究明してみたいと思います。
 
第23話〔昭和36年2月号 No.56〕
速記の翻訳のいろいろな形。目的によって仕上げが違う
 速記の翻訳の方法は、いろいろありますが、主なものを挙げると、次のとおりになるかと思います。
1.発音口訳法−速記したナマの速記録をそのまま読み返す方法。これは、漢字やカナに書き直すことをしないで、速記録を口で発音に変えていく方法です。だから口訳していくほど、後は消えていきます。何だか頼りないようですって?わたしはね、この形で速記が使いこなせたら理想だと言いたいのです。速記は、翻訳せねば役に立たない、という考え方は必ずしも正しいとは言えません。国民皆速記においては、特にこの点を強調いたします。(速記時代 38)
               ×  ×  ×  ×
2.視覚黙訳法−前の方法と似ていますが、聞こえるように発音するのでなく、速記録を目で読んでいく方法です。必要でなければこれでよろしいので、国民皆速記では、こういう場合が多いかと思います。否、この方法を多く利用するほど、速記の価値が高まるのであって、これこそ速記使用の本命と見るべきではありますまいか。読書の発達過程から申しますと、黙読は音読より進んだ過程になっておりますが、速記もこのコースに進みたいものです。
3.書き流し反訳法−速記録を訳読するに従って、文字の吟味にとらわれないで、書き流していく。この際、文字は国字ならば何でもよく、漢字が出てこなければ、カナばかりでもよろしい。言葉の意味がわからなければ、例えば、自分の知らない言葉とか、どの漢字を当てはめるかわからない場合は、遠慮なくカナで書き流しておいてもよろしい。こういうふうに、訳する文字には、気兼ねなく、ともかく、一気に書き流していきます。ただ、このときに心得ることは、「訳音」を間違えぬこと、これを間違えては「誤訳」になってしまうからです。これは作文のときと同じで翻訳中に、1字1字にこだわって字引をくっていては、想のよどみを来すから能率が害されないようにすべきです。
               ×  ×  ×  ×
4.完全反訳法−書き流し反文を添削して、完全な文に仕上げる。書き流しの中には、
不適当、不完全な用字用語があるのです。どういう漢字を当てはめるか。漢字にするかカナにするか。カナ遣いに間違いはないか。用字用語を検討する。
 さらに、句読点を入れることや、「 」“ ”( )?!……など、さては、行を改めたり、段落を区切ったりするのは、たやすいことではない。項目に数字や記号をつける。語り手の発音しなかった部分まで、表現しなければなりません。しかも、これを原稿用紙に清書するとなると、単なる筆記力だけではなく、豊富な常識が物を言うことになります。
 完全と思っていても、読み返せば読み返すほどミスのあることに気づくものです。速記が単なる指先の器用さだけでなく、その上に、広い範囲の、程度の高い教養と常識とを備えねばならんことを、まざまざと感じさせられます。印刷の校正も厄介なものですが、速記の翻訳もまた恐るべしと言うべきでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 以上のほかに、また別な形の翻訳方法が考えられます。今までに挙げた4つの方法、いずれも、速記録に全く忠実に−語り手の話したそのままを記述することを、最上の目的として何ら疑問を差し挟む余地がないように考えられます。
 しかし、実際問題としては、必ずしもそうではなく、むしろ、次に述べるようなものの方が、本当に役立つことにお気づきになるでしょう。
5.要領反訳法−内容の要点を集約整理して成文化する方法。講演の多くは「あります体」「ございます体」ですから、まずそれを「ある体」に直します。これだけで全文がよほど簡約されてきます。この程度なら、内容はほとんど省略していないと言ってよいでしょう。
 次に内容に重大な意味を持たない部分を省いてみます。例えば−
 皆さんも先刻ご承知のとおり、
 前にも述べましたように、
 今さら、改めて申すまでもなく、
 どういったらよいんですか、
 ……と一口に申しましても、
 時間も少ないようですから……
 こういう言葉は、余り影響がないようですから省いてもよいでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 また、講義などには、往々同じことを繰り返しがありますから、それを適当に省略する。
黒板や図表を使って講義された場合は、文章表現で意味が通るように、整理することが必要になります。
 こうしますと、文に締まりができ、読む場合には、文意がつかみやすいしかえって感銘が深くなるものです。新聞記事には、多くこの方法がとられていることに注目しておきましょう。
 
第24話〔昭和36年3月号 No.57〕
日常生活に利用しやすい速記の翻訳法は
 5.(続き)「要領反訳法」は原文と全く内容にはかかわりなく、絶対的には必要でない語句の表現だけを簡約していますから、読むのに要領をつかみやすく、能率的であるといってよいでしょう。
 原稿を手にした演説、それも「全文原稿」を読み上げるような大臣の演説などとなりますと、比較的、文にダル味がないから、反訳しても、文としては読みやすいですが、聞いているときには、味の少ないものになります。そうかといって、原稿なしで、感情的にベラベラしゃべる演説を速記したものは、反訳文を読むのに耐えられぬ文のマズさやダラシナさを嘆きたくなります。宗教講座とか文芸講座とか、あるいは実務講座など、「講座もの」の速記が、そのまま書き物になっているものもありますが、テープレコーダーで聞くとよくわかる場合でも、そのままを書物にして読むと、退屈なことが多いものです。
               ×  ×  ×  ×
 読んで学ぶ本は、講義録そのままでなく、適当に文章表現を改装したものがよいようです。もちろんラジオなど聞いておりますと、文章そのままを読んでいるような講座風なものも少なくありません。が、書物(またはすぐ書物になる原稿)を読み流されては、講義をつかまえるのに苦労が多く、聴取者としては失望せざるを得ません。やはり、聞かせる原稿は、聞いてわかるようなものを用意すべきであり、読ませる文章は。視覚に訴えて了解するのに、都合のよい文章表現を用いるべきであると思います。
 この2つは、それぞれを交換して使うことは、絶対に避けるべきであり、もし、これを無視するならば、話し手(筆者)としても、聞き手(読者)としても、両損となってしまいますから猛省を促したいと思います。
 平素から、余りイヤな放送を聞かされるので、力が入り過ぎましたが、要は、全文反訳が必ずしも万能でない場合もあるということを強調したかったからです。
               ×  ×  ×  ×
 6.今度は前記の「要領反訳法」の変形ともいうべきもので、速記録の全文を訳することなく、ある目的に必要な部分だけを訳する方法です。議事録などには絶対対応できませんが、実際生活においては、全文でなく、部分的に抜き書きすれば足りる場合がしばしばあるものです。
 こういう場合に、不必要に近い部分は、高度の簡約を施して、「話のつなぎ」とする場合もありますから、適当に利用したいものです。
 また、これとは逆に、極めて重要な部分については、一言半句もそのままの完全反訳が必要な場合もあります。新聞記事は、大体要領を書いておりますが、「問題を起こして重大発言」などとなると、その部分の完全反訳が出ております。
 このように、演説、講演の一部を、あるいは省略または簡約したり、あるいは完全反訳したりする方法は内容の軽重、読者の興味、ニュースバリューなどに応じてうまく利用すべきであって、これによって、文の単調を破り、読み取りやすいものにすることであります。20枚以内とは、3枚でも5枚でもよいという意味ではなく、20枚になるべく近づけると解すべきです。この方法を「企画反訳法」と名づけておきます。
               ×  ×  ×  ×
 速記の反訳文を、このように分量企画に合うように仕上げることは、速記者以外の仕事であると言ってもよかろうと思います。文を引き伸ばすことは速記者自身のなすべきことではないし、反対に簡約するにしても、訳者の主観が入りますから、軽々に手出しできないとも言えましょう。考えてみると難しい問題で、速記者はそこまでする必要がないというのが正しい態度のようにも思います。しかし、わたしの唱えている「国民皆速記」は、専門家の速記でなく、日常生活に速記を取り入れたいのが念願です。本当ならば、速記者を離れて編集者の手で行われるべきはずの作業をも、できればやってみるのもおもしろいことではあるまいかとの考えにほかならないのです。ご賢察ください。
 
第25話〔昭和36年4月号 No.58〕
やすいように見えて難しい。漢字と速記文字の違い
 速記を初めて知り、簡単な説明を聞いたときには、だれしも、その偉力に驚かされる出しょう。難しい漢字しか知らなかった者にとっては「よくも、こんな便利な文字があったものだ。1つ習ってみたい」という気が起こるのが普通でしょう。
 しかし、物事は、そとからのぞき見したほどには、たやすいものではない。速記とても、
一場の説明では、ただおもしろいばかりですが、一通り書けるまでの練習期間には、山あり谷ありで、つらいことが多く、イヤになることがあるものです。
               ×  ×  ×  ×
 それは、わたしだけの体験でなく、初心者は大抵共通的に、難所にぶつかるようで、ここへ来て、イヤ気が生じ、これをガンバリ抜くか、それとも一服するか、とにかく学習意欲に対する影響が、大いにあるように思われます。
 では、それは、どういう点だろうかとなりますと、わたしは、これを次の3つではないかと思うのです。
1.自分の書いた未熟な速記文字を反訳することは、イヤなことの最たるものである。
2.シャ、シュ、リョなどの拗音は、ややこしくて、覚えるのに苦労である。
3.固有名詞や数字(紀元年数や指係数、係数などは)、正確な自信を持ちにくくて、精力を多く消費する。
 以上は、わたしのまとめたところであって、皆さんは、必ずしもそうではないかもわかりません。わたしとしては、多くの初心者から訴えられる難所で、この山を越えたら、後は比較的やすいのではないかと思います。
               ×  ×  ×  ×
 このうち、2と3の取り扱いについては、ひとまず、後回しにして、前号で述べました「翻訳」のいろいろに関連性のある第1の問題、すなわち「自分の書いた未熟な速記文字を反訳することが、なぜイヤなのか」この解明のために、漢字と速記文字を比較検討してみることにいたしましょう。
1.速記文字は、難しいようでやすい−さらさらと演説が書けると聞けば難しい技術のように感じますが、さて、よく速記文字をのぞいてみると、やすいようにも見える。
 1本の線が「こと」であり、ツメ型の曲線が「もの」であることさえ驚きであるのに、ヘの字が「奮闘努力」だの、コウモリ傘の柄が「教育」であったりすると、奇抜と見るのが当たり前。指で、その速記文字をなでてみても、アホらしいほど簡単にできている。
 「速記とは、こんなにやすいものか」と、早のみ込みするも、不思議でありますまい。ところが、どういたしまして……。
               ×  ×  ×  ×
2.速記文字は、やすいようで難しい−ということも本当でもありますまいか。1と反対の論になりますがね。
 その根拠はどこにあるか。もう少し探ってみましょう。
 「線画が簡単であること」は、視覚的には、極めて、やすい感をいだかせます。ところ
が、速記文字の本質上これを、少しゾンザイに書くと、1本の横線が、カとなったり、コとなったりするだけでなく、フやツになったり、タやトにもなります。
 漢字の活字でイチと言えば、水平な横画に決まっていますが、漢字でも、筆記体になると、正確な横画は、絶対的に必要なワケでなく、イチという横画が、「右上がり」であろうと、「右下り」であろうと、読む上では決して差し支えない。活字でさえ、「宋朝体」となると、横画は完全な右上がりになっているのですもの。
 漢字の筆記体では、横画の上がり下がりだけでなく、イチの字が、速記文字のノの字や、
モの字のように、反り返っていても、堂々とイチと読まれています。いわば、それだけ、漢字筆記体には、線画の曲直、長短、角度などが、大マカにできていると言ってよいでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 桜の名所、吉野の「吉」の字が、サムライであろうと、ツチであろうと、堂々と通るではありませんか。
 速記文字では、横画のイチを「コト」と読みますが、もし、筆尾に余勢がはみ出すと、
「コトに、コトの、コトと」など、余計な文字になってしまいます。また横画が、上や下に反り返ると「モノ」になったり、「マセン」になったりします。速記文字は、精度が非常に厳しく要求されるワケです。
 こういうところが、漢字と速記文字との根本的に違う点でありまして、これら2種の文字における、書く場合、読む場合の困難度が、案外、見かけによらないことを悟っていただけたことと思うのです。
 この続きは、次回の紙面を煩わすことになりますが、次いで初心者としての、反訳の心理や、その作業の指導要領といったようなことに、言及してみたいと思います。諸兄のご高見をお待ちしております。
 
第26話〔昭和36年5月号 No.59〕
簡単な線画を読み分ける速記文字。乱筆でも反読がきく漢字
 速記の学習中に、イヤなことが3つある。その1つに「自分の書いた未熟な速記文字を反訳すること」というのがある。理由として考えられることは、
1.速記文字は、難しいようでやすい。その説明。
2.速記文字は、やすいようで難しい。その説明−ここまで前号で書きました。今度はこれを受けて、筆を進めたいと思います。
               ×  ×  ×  ×
 3.速記は簡単な線画を巧みに読み分ける。−「漢字は、比較的複雑な字画の構成による字形を読む」のですが、「速記文字は、比較的簡単な線画をもってこれに当て、しかも、線画の長短、曲直、角度など微小な差異を巧緻に読み分ける」ということができるでしょう。
 速記文字の弁別の難しさは、実にここに存すではありますまいか。だから、このように、
漢字と速記文字とは、文字の構成が全然違います。したがって、読み方の要領も、全く違うのは当たり前です。
 これが“漢字を見なれた目で、速記文字を見る場合”に、「やすそうで難しい」ということが、ウソではないことになりましょう。
               ×  ×  ×  ×
 4.速記の乱筆は、読むことが極めて難しい−漢字の乱筆はある程度、判別することが可能でありますが、速記文字の乱筆と来ては、読めたものではありません。
 この、著しい差異は、前述の説明によっておのずから、明らかなところです。漢字は画数の多いのが最大の欠点であって、それがためにこそ“文字改良運動”がやかましいことは皆さんご承知のとおり。
 だが、漢字は、画数が多いということのために、「乱筆や早書き」というより「慌て書き」をしても、割合に“判読が可能”であるというヘンな特長を持っておるのです。「短所すなわち長所」というのですか。
 もちろん、漢字は、カナまじりで使われますから、たとえ、書き方がゾンザイであっても、「文脈」によって「読みがくだる」可能性が多いもので、この点は、速記についても、
文脈は無視できませんが、漢字には勝つことはできないでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 しかし、漢字とても、乱筆すると、全く区別がつかなくなって、その結果、重大な、「読み違い」になる場合がないとは限りません。原稿の文字が、「書きなぐり」のために、トンでもない誤植ができるのも、やむを得ないではありませんか。
 例えば、「未と末」。「末と米」。「左と右」。「月と日」など。草書は特別な筆順や線形が、
決められていますが、草書の心得のないものがいわゆる「続け字」を「ムチャクチャ流」でなぐり書きしたのでは、先に申しましたような支障が起こるのが当たり前です。けれども、これは分量の上からは少ないものですから、「乱筆ご判読くだされたく」でマに合うというのです。おもしろいことではありませんか。
               ×  ×  ×  ×
 ここまで述べてきましたところは、「速記反訳の場合難しい理由」を探求的に考えたのでありました。しかし、これの内容や、調べ方からしますと、また別なテーマ、例えば、
 1.速記文字と漢字の成り立ちの比較研究。
 2.速記文字と漢字との書き方、及び読み方の要領に関する研究。
として、取り上げてもよいと思われます。いずれ、これらは、別な研究題目のものとして、
改めて書いてみることにしたいと考えております。
               ×  ×  ×  ×
 「反訳の指導は、どういう要領でやるべきか」の段階にまできました。そもそも、この詳論は
 「初歩の速記学習における3つのイヤな作業」
を挙げてきました。そして、その第1に「自筆の速記文を反訳するのがイヤ」という問題を、解決、指導しようとするものでした。
 「なぜ、自筆の速記文の反訳がイヤなのか」ということも、やや詳しく検討してきました。では、解決方法として、まず考えられることは、
 「イヤなことは、ムリにさせない」ということです。実に簡単。だが、待てよ。速記の反訳は大変重要なことではないか。イヤがるからと言ってやらさぬワケには行くまいという反対論が聞こえてくるようです。イヤイヤでなく、楽しみながら、反訳を学習させ、しかも実力をつける方法はないものでしょうか。次回にさらに研究してみましょう。
 
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