第27話〔昭和36年6月号 No.60〕
初心者の未熟な速記文字は、反訳を強制しない方がよい
 「自分で書いた字は、自分で読めるはず。いや、読めなければならぬ」ということは、余りにも当たり前過ぎることでしょう。速記においても、同じことが言えると思います。さあ、その当たり前のことが、実際にはそういかないということですから、おもしろいではありませんか。
 速記の学習において、初心者に基本文字を教えます。ある程度覚えると何か書かせる。書かせると、それを読ませる。というのが、だれでもがやる極めて普通の指導方式です。だが、この当たり前の方式は、いつでも、どこでも、有効な最良方法なのでしょうか。考えてみましょう。
               ×  ×  ×  ×
 試みに、速記の初心者に聞いてみます。
 「あなたは、速記を書くのと、あなたの書いた速記文字を読むのと、どちらが好きですか」
 「それは決まっています。書くのはトテモ楽しいですが、読むのは大嫌いです」
 何のためらいもなく答えます。
 「あなた自身が書いたのでしょう。読むのが大嫌いとはおかしい。なぜですか」
 「さあ、それはそうですけれど、自分の書いた字は、ヤヤコシくて、すぐ頭が痛くなってくるのです」
 「いよいよ本音を吐きましたね」
 「え?ナンですか」
 これが、多くの初心者を代表している、偽りのない告白ではないでしょうか。わたしは、
これを「初心者の3大苦痛」の第1番に挙げているのですが……(本誌 58)
               ×  ×  ×  ×
 では、速記を書くのに比べて、読むことが、なぜ、それほどイヤなのでしょうか。理由を追求してみることにします。
 話は、本誌の前の号に戻ります。
〇やすいように見えて難しい。漢字と速記文字との違い。(58)
〇簡単な線画(セン、カク)を読み分ける速記文字。乱筆でも判読がきく漢字。(59)
 というテーマで、詳しく私見を述べておきましたので、ご覧いただきたいのですが、要するところは、漢字と速記文字の基本画の構成が全然違う点にあるといってよいでしょう。
こういう目でみますと、両者の違いがおもしろく浮き上がってきます。
               ×  ×  ×  ×
 漢字は、大体画数が多いというだけでなく、ヘンやツクリなどの組み合わせで、構成されておりますから、その心してみれば、容易に、読み分けることができます。
 それに、楷書という基本体から、行書、草書などの誘導体にさえ、崩していけるようにできているのです。微妙なようで、しかもホンポウな字形が余り労せずして読めるという、
大きな特長を備えています。
 これに比べると、速記文字は、基本画そのものが、直ちに、文字になるほどの「簡単無比」の線画をもって構成されております。
 ですから、わずかの線画の長短や太細、それに傾斜度合いなどの差によって読み分けねばなりません。
 速記文字は、モノサシと、分度器で書く文字と言えば、神経質過ぎる見方かもしれませんが、この点からすれば「精度無比」の文字であると言ってもよいではありませんか。
               ×  ×  ×  ×
 ここまできますと、読者諸兄にはわたしが、何を言いたがっているかを見当づけてくださったと思うのです。
〇初心者の未熟な速記文字は、反訳や反読を強制せぬこと−
 これこそ、わたしが考え抜いたあげく、結論的に得た指導要領の1つです。大ゲサな表現かもしれませんが、これによって、どのくらい、学習者の気分を生き生きさせることでしょう。
 自分の書いた字は、あくまで、自分で読まねばならぬ。読みにくいから、イヤだと言っても、そんな責任逃れは見逃すことはできないはず。それなのに、ああそれなのに……わたしはこれを寛大に許して上げたいのです。
               ×  ×  ×  ×
 弁護人?の立場において「強制反訳」の効果が、いかに少ないかということを挙げてみましょう。
〇不正確にしか書けていない速記文字を、ムリに反訳する(させる)場合の不合理な点−
1.不正確な素材の中から、正確な答えが出るはずがない。
2.ムリな判断をするなら、いろいろな、数多くの答えが出るだろう。
3.これらの数多くの答えは、1つだけが当たっているのか、みなウソなのか保証できない。
4.たとえ、当たったとしても、それは、マグレ当たりである。
5.でなければ、前後の文意から推測して当てたにすぎない。
6.前後の文意で判じることは、重宝な方法であるが、応用の範囲に制約がついてくる。
 
第28話〔昭和36年7月号 No.61〕
反訳教材には、まず正しい模範速記文を与える
 夏と言えば、速記界の呼び物「全国大会」が、大きく浮かんできますが、このごろは、神田の本城(※中根式速記協会の意味)では、準備でテンテコマイだろうと思います。
 大会と言えば、競技問題の解答には「速記の完全反訳」が絶対条件の1つですから、参加の学生諸君は、反訳にも、万全のペンを磨いていることでしょう。
 それにしても、訳文を、どんな形に表現するか。制限漢字、新カナ遣いによることはもちろんですが、細部になると、官報議事録体にするか、文部省体にするか、一流新聞体にするか、どれでなければならぬと強要はされないにしても、今、国語の表現について、異論がバクハツしているときだけに、自分としての識見を持てるよう、勉強しておくことも必要です。
               ×  ×  ×  ×
 わたしの「速記の翻訳」についての小論も、去る2月号依頼、6回目となりました。自分ながら、長談義にあきれているのですが、結論も見えてきましたから、しばらくのご辛抱を。
 そこで、簡明率直に、申し上げますと、「反訳は強制しない方がよい」ということに尽きると思います。これには「未熟な速記文字しか書けない時代においては」という“ただし書き”がつくのですが……
 その理由は、これまで、いろいろの角度から、かなり詳しく論じてきましたから、十分了解していただけるかと思いますが、相手は専門速記ではなく、日常生活に使用する国民皆速記のことですから、その目標も、余り高度のものでなく、速記の技術も、習い方も通俗気軽なものであることを承知の上で、考えどころの幾つかを数えてみようと思うのです。
               ×  ×  ×  ×
 1.反訳の練習よりも、判訳になりやすい−初心者の未熟な速記文字は元来、正確に書けていないのですから、それを読もうとすると、視覚神経をやたらに使い、推理判断を多く要するから、精神的に非常に疲れる。考古資料や未踏文化の解明だとか、今流行の事件物の犯罪捜査でもあるならば、縦横に想像を走らせて、本体の究明に精根を打ち込むのも、また快ならずやというところ。後日、重大な事態を巻き起こすような、速記文字の遺言ともなれば、どんなに乱れた字体であろうと、まさに、名探偵的ケイ眼を光らせるべきでしょうが、そうでもない普通の場合は、取り扱いに手心を加えてもよいのではないでしょうか。
 2.徒労なことに頭を使うことになりはせぬか−前にも述べたとおり「不正確から正確を求める」ことがどんなにムリなことであるか。徒労であるばかりです。このようなことで、頭脳を苦しめ、時間を消費することは、益が少ない。やめるにしかずです。
               ×  ×  ×  ×
3.自分の書いた未熟な文字が、容易に読み返し得るという自信のないのに、反訳を試みることは無意義である−初めから、読めそうもない字を書くこと自体が、そもそも無責任な行為です。今、例をとって「タマゴ」と速記文字で書いてあるとします。これがアイマイ文字なために、どんなに読まれるか、拾ってみましょう。
「タマコ、タミコ、ダマコ、タマト、タモト、トミコ、トマト、トモカ、シマコ、タサカ、
トイコ、サミモ」おもしろいはずがありません。苦読というべきでしょう。
 4.こんな反訳は、幾らしても価値がない−やりがいのないことに力を注ぐほどつまらないことはありません。イヤ気が増すばかりです。強制はしないがよいでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 では、反訳練習は無用でしょうか。否、大いに必要です。わたしは、これに対して、次の提案をします。
 「正しい模範速記文(または文字)を反訳させる」
 完全な反訳というのは、「速記原稿を完全忠実に国語表現すること」でしょう。アイマイなウソ字があっては、完全な反訳が生まれるはずがありません。そこに立派な教材、すなわち、精根を注いで練習するに足る速記原稿が必要なわけです。
 教材は、内容や程度の変わったものが豊富に用意されることが理想です。印刷であろうと肉筆であろうと問題はありません。
 「読みがくだらない」つまり反訳がつかない場合でも、原文にウソはないのですから、あくまでも読み抜くことに努力させるべきです。また、この努力こそ、実力を養っていく上に役立つのです。
               ×  ×  ×  ×
 こうして、ある程度、反訳の実力がついてくると、反訳がいたずらに苦しい作業でなくなり、自分の書いた速記文を反訳してみたくなってくるものです。こうなると、反訳できないような字は書かないように、自重します。それこそ、指導者の思うツボに、はまってきたというべきではありませんか。
 
第29話〔昭和36年9月号 No.63〕
社会人としての書写生活における“国民皆速記"の位置
 去る8月23日、ラジオ・ニュースで聞いたことですが、大体の意味は、
 「郵政省では、郵便物の遅配解消に全力を注ぐことになった。ついては国民の皆様のご協力をお願いする。……郵便物のあて名には、カタカナやローマ字を使わぬようにしてほしい……」
 郵便遅配の原因の一部を、カタカナやローマ字に負わしているところが、おもしろいではありませんか。
 この2つの文字は、いずれも表音文字であって、近ごろは、表記法の機械化によって、特にカタカナの使用がふえていく傾向にあるようです。郵便のあて名−あて名のすべて固有名詞−に、これを用いることの可否となりますと、一利一害、容易には断じ得ないのではないかと思いますが、郵政省が簡単に割り切っているところに、問題があるように思います。
 電信が明治の始めに設置されて以来、カタカナを使ってきた郵政省が、郵便から締め出そうとする大胆さにあきれかえらざるを得ませんが……。
といって、わたしは、郵政省の言いたいところがわからぬではありません。とにかく興味ある問題ですから、またの折りに、研究することにいたしましょう。
               ×  ×  ×  ×
 わたしの小論「国民皆速記の運動」も、昭和34年2月、32から、大分長く続きまして、
筆者としてはこの上ない光栄ですが、読者の皆さんには、さぞかし、ご退屈なことと恐縮しております。
 平素気づいている幾つかの問題をとらえて、あるときは随想風に、またあるときは漫談的に、しかも、内容的に順序も立てず、一貫性に欠けた記述ですから、そしてまた、1回限りの読み切りであり、数回連続もあるといった調子ですから、悪文の見本みたいなものになっております。
 学究的な、科学的な頭の方からご覧になれば、歯がゆく思われるでしょう。まったく「貴重な誌面を汚しまして……」というほかありません。
               ×  ×  ×  ×
 そこで、わたしの持論であります「国民皆速記」のねらいを、どんなところに置いているのか。すなわち、
−社会人としての書写生活と国民皆速記との関係を、どういうふうに位置させるか−という点について、この際、中間的に要約してみたいと思うのです。
               ×  ×  ×  ×
 我々社会人の、書写法と言えば「漢字とカタカナとひらかなの3者を併用する方法が、そのすべてである」と言ってよいくらい、大きな支配力を持っております。
 この3者は、国字として、日本国民の書写を代表するもので、国字問題がやかましくなっても、容易に、これらが消散して、他の文字が取ってかわるというようなことは、ちょっと想像できません。
 最も、「文字としての記号の、機械化が進めば、すばらしい技術が出現することは必至である」と信じますが、といって、「一般社会人が、自分の手先を動かして書写する方法」には、幾ら機械化が進んでも、現代の国字は、相当長年月にわたって、使われるだろうと思います。
               ×  ×  ×  ×
 幸か不幸か、今日行われている国字は、多くの難点を持っております。それは、国民の書写生活を非能率にしているだけでなく、国家全体のあらゆる部面に、発展の妨げをしております。一国の文化、人間の幸福が文字のために災いされていることは何という悲劇でしょう。
 さればこそ、速記文字を登用せねばならないことになってきます。しかも、速記には「国民皆速記の役割」を演ずることが要望されております。
 少数の専門家は、独自の任務を持ち、またよい指導者でもあります。が、これら専門家さえあれば、満足してよいかと言えばそうもいきません。
 「速記は、一般社会人の常識」として、ほとんどすべての人が、「知っており、使い得る」ようでありたい。少し速度を落とせば、だれでもできる速記を、国民のすべてに使ってほしい。これが国民皆速記の目標です。
 
第30話〔昭和36年10月号 No.64〕
速記文字と国字とのまぜ書きから、速記文字ばかりの使用へ
 速記を知っている人にも、その習熟程度や、使用態度などによって幾つかに分類することができます。
 これを大きく分けますと、
 A 速記専用法、
 B 速記と国字との併用法、
となります。そして、速記使用の態度や程度によって、ABのおのおのを、さらに、次のように2つに分けることができると思います。
               ×  ×  ×  ×
 第1類、職業的な専用法−これは速記を使って生業を立てている専門家の方法です。
速記を学ぼうとする大部分の人々は、このような専門技術を身につけて、1人前の速記士となろうと志しているのであり、速記を教える学校や塾なども、主として、速記士養成を目的として経営されているようであります。
 これら、速記の完全な技術を持っている人々は、みずから職のために働くことはもちろんですが、何といっても、速記技術を保持している中核ですから、後に続く者のためにも、
よい指導者として、後輩の指導に奉仕されるよう望んでやみません。
               ×  ×  ×  ×
 第2類、職業でない専用法−速記の技術を完全に習得したほどの人ならば、恐らく、
その実力を、職業の上に生かすように考えられます。早く言えば、モッタイないとも言えるでしょう。しかし、この種の人は、必ず職につかねばならぬ、というワケでもありますまい。多くの中には、職業の方便ではなしに、生活におけるあらゆる書写−社会的な例外はもちろんある−を、速記文字一式でやっている人もあろうかと思います。もし、今日の段階では、まだないとすれば将来、こんな人々が、どしどし出現してもよいのではないかと、大きな期待をかけたいのです。
 こういう人こそは、速記の真目的を解しているのであり、かつ、速記を最高度に利用しているのでありますから、その態度には限りない敬意を表すべきではありませんか。
 最も、この部類に入る人々は、ことごとく演説がとれるかというと、必ずしもそうでない場合もあるでしょう。この場合、専用ということと、「演説速記」ということは一致しないことも考えられますから……。
               ×  ×  ×  ×
 次に、Bに属するものについてであります。これは、前述のとおり、速記文字と国字とを併用する方法です。国字とは、漢字と2種のカナを指します。その方法に次の2つが考えられます。
 第3類、分別併用法−これは、書写物の種類によって、
 その1、速記ばかりで書く場合、
 その2、国字ばかりで書く場合、
との2通りに使い分ける方法です。
 例えば、共同研究による資料を取りまとめる際には、速記を知らない会員でも、自由に読めるように、国字ばかりで書くことにする。また、人に読ませる書類などもこの方法をとります。
 しかし、自分自身の研究物や記録、他の書き物からの抜き書き、その他原稿の下書きなどは、あえて面倒な国字を使う必要はありませんから、速記文字ばかりで処理します。もちろん、速記を知っている同志の間では、この方法を拡大していきます。
               ×  ×  ×  ×
 第4類、まぜ書き併用法−これは書写物の種類や内容に関係なく、速記の能力と便宜との点から、自由、無制限に、速記文字を使う方法で、速記で書く方がよい部分は速記で、
都合の悪い部分は国字で書きます。また、後での使用の便宜上、速記文字と国字との書き分けをする場合もあるでしょう。(地名人名など、国字の方がよい場合もある)
 中根先生の高著「通俗中根式速記法」の口絵に「学生のノート」がありますが、それには、「社会、問題、解決、建設」や「徹底」などの速記文字が大活躍を演じております。おまけに大学生のことですから、英語もまじって、3者まぜ書きという豪華さです。
 この方法なら、どんなに初歩の者でも、全然できないということはありません。できないのは、しないからです。演説速記が安全にできなければダメとあきらめないで、前記の学生の意気に感激して、自分の力相応に、速記を併用しましょう。
 この場合、速記文字と国字の混用の比率によって、次のようになります。
 第1、速主国従(速記が大部分で国字が少部分)
 第2、速従国主(前の反対)
 初歩のうちは、意欲は盛んでも、やむを得ず、「速従国主」で速記文字はチラホラですが、
実力が増してくるに従って、速記文字がだんだん目立つようになります。興味は募っていくばかりです。
 こういうふうに、第3類の分別書きと、第4類のまぜ書きとを、うまく使いこなすならば、どんなに未熟でも、決して、速記が中途でイヤになるということはありません。これも、堂々たる書き方の1方式だと信じさせることです。
 
第31話〔昭和36年11月号 No.65〕
人の話の速さをはかることの難しさ。よい方法は?
 人の話をする速さはどのくらいでしょうか。話と言えば、演説、談話、講義、対談、ひとり言……いろいろありましょうが、その速度を正確に測定することは、容易なことのように考えられるかもわかりませんが、難しく考えると、また難しい。本当に満足できるような方法は、ちょっとなさそうに思えてなりません。
 あの人は舌がよく回るとか、この人は舌が重たいなとど言いますが、これも大体のことであって、同じ早口と言われても、そこにはまた、幾らかの違いがあるはず、「今、話している瞬間は幾ら」というように数字ではかる方法がないものでしょうか。風速をはかるようにね。
 話の速度をはかるには、幾つかの方法が考えられますが、どれにしても一長一短であって、真に科学性を備えたものは、ないというのは、言い過ぎでしょうか。
               ×  ×  ×  ×
 そこで、わたしは、まず、ずっと以前から一般的に行われてきた方法を取り上げてみることにいたします。
 A.国字の字数を数える方法。
 話を国字、すなわち、漢字カナまじりに書きあらわして、単位時間における字数を数えて、「1分間に200字」のようにあらわします。我が国の、普通の書写法として、国字を使っている以上、別に不思議ではなく、むしろ専ら、この方法が用いられていることは当たり前と言ってよいでしょう。速記を練習するにも、速記の試験検定をするにも、標準化された表現法となっております。
 しかし、よく考えてみますと、これも正確な方法とは決して申すことができない。おおまかなことしかわからないというのが結論のようです。それはなぜでしょうか。それを解明するために、1つの実際材料を借りてくることにいたしましょう。
               ×  ×  ×  ×
 総理大臣、池田勇人さんの施政方針演説−第37回国会、衆議院におけるもの。テレビ放送によって筆者の速記したもの。(※昭和36年当時の仮名使い)
 「このたび行なわれた総選挙において、各党はそれぞれ政治に対する心がまえと政策を 国民の前に明らかにし、その厳粛なる審判を仰いだのであります。その結果、与党なる 自由民主党は、国民多数の根強い支持を得、わたくしは、ふたたび内閣総理大臣の重責 をになうこととなりました。ここに決意を新たにして、この国民の信頼と期待にこたえ たいと思います。
  今回の総選挙が、政策中心の論議に、ともかくも終始したことは、わが国民の民主政 治の一つの前進であったと思います。(これで1分間)
               ×  ×  ×  ×
 池田総理の演説。始めから1分間に話したもの。これはどのくらいの速度であったかはかってみますと、
 1分間−204字
となります。これは速いものではなく、大体中速度か、それより少し遅い部類と言えましょう。
 施政方針演説だとすれば、国民も関心を持っていますし、特に野党側はウの目タカの目?で食い下がってくるでしょう。1字1句に至るまで十分吟味され、速くもなく、遅くもなく、総理としての貫録をいかんなく発揮するように演出されたものと思われます。
 特に、この場合、原稿そのままの朗読演説ですから、話の調子に、緩急抑揚を欠き、池田さん持ち前の話ぶりよりも、幾分不自然になっていたように思われます。
               ×  ×  ×  ×
 かの雄弁の神様のように言われていた永井柳太郎が、大阪の中の之島公会堂へ来たとき、
「この公会堂で後ろまで声が通るのは、永井柳太郎だけヤ」と言わせたもの。拡声器のなかったそのころ、単に声が大きかったというだけでなく、彼の雄弁を満喫しようという聴衆の期待も手伝って、よく会場の隅々まで届いたのかもしれませんね。速度としても、決して速かったはずはなく、むしろ技巧があり過ぎたように思います。あんな話ぶりが、今日、受けるかは、すこぶる疑問で、もしその人が、今の時代にいるとしたら、もっと違った演説をやるだろうと思われます。
 だから、同じ人の演説であっても、1.演説の内容、2.演説の態度、3.演説の環境、
4.聞き手の数や質などによって、相当違いのあることを知らねばなりません。特定の、わずかな資料によって「だれの演説速度は幾ら」と、決まったように考えるのは、必ずしも、正しいとは言えないように思われます。
               ×  ×  ×  ×
 池田さんの演説の速さは、一応「1分間204字」となりますが、それは、「あのときの、あの話材」としての条件つきのことです。その条件は承知の上だとしても、なおほかに、測定値を不安定にする要素があるようです。
 次回には、アンダーラインをつけた部分などから追求してみましょう。
 
第32話〔昭和36年12月号 No.66〕
池田総理の舌はどのくらいか。長くなったり短くなったり
 人の話の速さをはかるには、話を漢字カナまじり文に書き直して、その字数を数えてあらわすことが、今日行われている代表的なものであるが、この方法といえども、必ずしも理想的なものとは言えない−という意見を、前号で述べたのでした。
 今回は、さらに、別な観点から考察してみることにします。
 前号の「池田総理の演説」を材料として調べることにしましょう。
               ×  ×  ×  ×
 問題は、本文につけておきましたアンダーラインの部分についてです。この文は、今日、
一般に行われている「当用漢字、新仮名遣い、新送り仮名」によったものです。しかし、これにも、新聞雑誌、教科書、公文書などによって、書き方に違いがありますし、同じ新聞でも、誌面や記事によってまちまちです。公文書でさえ、文部省と他の省とでは、不一致な点があります。
 だから、これを完全に統一することは、不可能と言ってよいでしょう。ましてや、国語国字問題のくすぶっているとき、余りとやかく言うのは、どうかとも思います。
 わたしは、そういう考えから、最も一般的なと思われる書写法によることにしております。とは言うものの自分の文が、まちまちな表現になっていて、恥ずかしい思いをすることの、何と多いことよです。
               ×  ×  ×  ×
 さあ、演説の本文を吟味することにしましょう。
 当用漢字、常用漢字、新仮名遣いなどのあらわれる以前(仮に前時代と呼んでおく)には、文の表現には、漢字のある限り、漢字を用いる、というのが決まりのようでした。
 「このたび」は「此度、此の度」と書き、「おいて」は「於て」と書き、「それぞれ」は「夫々」のように書きました。また、「ふたたび」や「ともかく」も漢字を使いました。
 「わたくし」は、今日では、「代名詞はなるべくカナで書く」の決まりに従って仮名で書かれている場合がたくさんありますが、前には、絶対に「私」の漢字1字に決まっていました。
               ×  ×  ×  ×
 そのほか、今日では、「新送り仮名」によって前時代よりも、たくさん、送り仮名を送るようになっております。読みやすいようにとの親切心かららしいのですが、場合によっては、シチメンドウで、能率から言っても、感心できない節もあります。
 ともあれ、前時代には使われなかった送り仮名を、池田演説の本文から拾ってみます。波線をつけた部分がそれです。
 すなわち、「行われ」が「行なわれ」、「明か」が「明らか」の用になっているたぐいです。
               ×  ×  ×  ×
 ここで、以上、問題にしました部分を数え上げてみましょう。
 A カナにかわった漢字  16字
 B そのため、増した字数 19字
 C 送り仮名の増した字数 4字
 D 増した字数の合計   23字
 これでみますと、今日の書写法による方が、前時代よりも、字数の増加が23字となり、それだけ文が長ったらしくなっていることがわかります。つまり1分間の演説字数204字の中に、23字が増加分として、含まれていることになります。
 ですから、池田演説を
 E 前時代の方法で書くと
    204字−23字=181字
 では、これで、池田さんの舌の速さは、幾らかと言えば、どう答えたらよいでしょう。答えは2つ。
 F 前時代ならば   181字
 G 今日では     204字
 H 増した字数の場合 11%
 池田さんの舌が、長くなったものでも短くなったものでもない。原稿用紙1ページにおさまったものが、1ページからはみ出すようになった。おかしいことでもありますね。
                ×  ×  ×  ×
 もしも、1分間に、200字速記ができたら、何級合格という場合に、前記のとおり、204字なら堂々たる合格ですが、181字しか書けなければ「残念でした」ということになりますね。ウン悪く、「私」と「再び」の2語を漢字で計算されたら、合格の喜びから、たちまち谷底へ落とされねばなりますまい。国語の文字表現の方法によって、合格になったり、不合格になったりしてはたまりませんが……。
 「今の人間は、前の時代よりも11%おシャベリになっている」−
 なるほど、セッカチな世相のせいもあるでしょう。そればかりかな?
 「今の速記士の能力は、1人の例外もなく、11%向上している」−
 「わたしは、何の努力もしないのに速記力が11%伸びた」−
 これらの、言いぐさは、ホントのようでもあり、キベンのようでもあります。何がそうさせたか。何のことはない。国語の文字表現の魔術にほかならないのです。
 
第33話〔昭和37年1月号 No.67〕
天皇さまは「わたくし」大臣や国会議員は「私」
 用字例として、おもしろいものを見つけましたので取り上げましたが、お正月のことですから、軽い気持ちでご覧ください。
 国会開院式における天皇さまのお言葉−「本日、第39回国会の開院式に臨み、全国民を代表する諸君と親しく一堂に会することは、わたくしの喜びとするところであります……」(朝日)
 このように天皇さまは、1人称つまりご自分のことを「わたくし」と仰せになり、文字表現も「わたくし」とひらがなにしておられます。
 これに対して、大臣や国会議員は1人称をどんなにあらわしているでしょうか。
 「文教の刷新と科学技術の振興は、すべての施策の前提となるべきものでありまして、私は特に力を注いで参る決意であります……」(池田総理。官報、以下同じ)
 「以上申し述べましたように、私はわが国のために……」(小坂外相)
 「あなたがこの経済高度成長について自信があるかどうかを私は疑わざるを得ないのであります……」(江田三郎)
 「私は、この言葉自体にあえて反対する理由はございませんが……」(曾弥益)
               ×  ×  ×  ×
 開院式のお言葉を、天皇さまご自身が起草されることもありませんでしょうし、ましてや「私」の字を使わず、「わたくし」と書きあらわそうというような、かたいご意見をお出しになったとも考えられません。
 恐らく、おつきの方が、天皇さまのお気持ちに合いそうな作文をしたものと想像しても、
大きな間違いではありますまい。殊にこれは、昔のチョク語のように、紙に明記してあるのですから、お言葉とは言いながら文書として、確実にいただけるわけです。
 一方、総理初め、大臣や議員の演説には、「わたくし」という言葉は盛んに使われておりますが、議事録には、例外なく「私」という表現になっております。
               ×  ×  ×  ×
 このように、国会での演説に出てくる「わたくし」という言葉は、音声としての「わたくし」であって、どんな器用な舌の持ち主であっても、漢字の「私」と、仮名の「わたくし」とを、しゃべり分けるということはできない芸当でしょう。
 これら演説者の原稿には「私」もあり「わたくし」もあろうと思います。
 また同一人で「私」や「わたくし」をまぜまぜに書いているかもわかりません。さらに、
原稿なしの場合も少なくはないのですが、それを詮索することは不可能です。
 にもかかわらず、議事録には一貫して「私」が使われております。これは演説者の意志や原稿におかまいなしに、「私」に統一されているのです。議事録そのものが、公文書であってみれば、不統一ではだらしないから、「用字例」をつくってそれに従うことにし、統一あり、手ぎれいな文章表現の方法をとっているのでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 この傾向は、教科書はもちろん、法律の条文を始め公的な文書、新聞・雑誌も同調していますし、大きな会社などの文書も、負けず劣らず実践をしております。
 文字の使い方で、一番やかましいのは、文芸作家ではないでしょうか。彼らは、自分の作品の表現には、用語用字、仮名遣いなどに対してすこぶる慎重です。原稿の1字でも勝手に変えて印刷するなどのことは、絶対に許されません。行を改めることも、句読点の1つ1つにもミスを起こしてはならないのです。
 それはなぜでしょうか。
 −頑固おやじの説法は、漢字でしかられている気がする。冷たい弁護士の同情は、片仮名的な説明にすぎない。暖かい母親の理解は、平仮名的な愛情を覚える。(私の言)
 このたとえは、いささかこじつけの感がしないでもありませんが、わたしには、そのように思われるのです。
               ×  ×  ×  ×
 「文字は、ただ音声を写す記号にすぎない」−という定義は、間違ってはいないようです。けれども、これでは何だか物足らぬ気がするではありませんか。
 文字には、語感、字感(この言葉は手製)を伴った思想感情を宿しております。文字を道具と見るにしても、それが生き物であることを知らねばなりません。さればこそ、用字用語がやかましくなってくるのです。
 とかく、神格化されやすい天皇さまが「わたくし」を使われ、庶民の代表たる大臣や議員が「私」を使っているのは、ちょっと皮肉です。けれども、この場合の用字法に限っては、そんな深い思想や作為があるのではなく、単なる表記習慣の違いにすぎないと見ておくことにいたしましょう。
 「わたくし談義」が長くなりましたが、やかましい国語国字問題や、速記との関係につきましては次号に……。
 
第34話〔昭和37年2月号 No.68〕
談義は続く。当用漢字音訓表を乗り越えた「わたし」
 「私」という漢字は、当用漢字としては、音は「シ」訓は「わたくし」だけに制限されています。この字を「わたし」とも読めることにしてはいけないでしょうか。
 「わたくし」と「わたし」は、同じ意味ですから、実際、社会では、余り厳重な区別はされていないように思います。
 現に、皆さんお楽しみのNHKテレビなどを見ましても、おもしろい事例をとらえることができるのです。
 すなわち、人気番組と言われている「私の秘密」や「それは私です」などのタイトルを司会者は、「わたしの秘密」「それはわたしです」と読んでいるでしょう。
 また、「わたしの発言」という番組では、始めに、投書者の表書きを写し出しますが、この中には、必ずといってよいほど、「私の発言係御中」というように、漢字で書いているのを見受けられます。
               ×  ×  ×  ×
 これによってもわかりますように、投稿者だけでなく、放送用語のやかましいNHKでさえ、「私」という漢字は「わたくし」と「わたし」の2通りに読まれており、逆に「わたくし」と「わたし」という言葉は、仮名そのままのほかに、「私」という漢字が使われていることになっております。
 漢字の訓はいろいろありまして、「生」の字は27通り読み方があり「下」の字は、国定教科書だけでも、音訓あわせると10通り載っていることなど、よく例に引かれております。
 「私」という字にしても、「ひそかに」「ささやく」などとも読まれてきましたが、これらは、当用漢字の音訓から追放されてしまいました。これはよいことだと思います。
 他の漢字を見ましても、「上」は「うえ・かみ・あげる・のぼる」と読ませ、「生」の字でも「うまれる・いきる・なま・き」のように4通りの訓を認めております。
               ×  ×  ×  ×
 それなら「私」の読み方を「わたくし」のほか「わたし」ぐらいは許してもよさそうですが、とも考えられます。これには筆者も一応賛成してもよろしいが……。
 ところが、この場合、少し面倒なことがあるようです。というのは「わたくし」と「わたし」は同意語であって、しかも、丁寧の度合いが違うということです。
 「わたくし」は「わたし」よりも、丁寧さが高い感じがします。「わたくし」では、丁寧過ぎる、「わたし」や「僕」では粗末過ぎる。という場合に「わたし」が使われるようです。
 とすれば、「わたくし」のつもりで書かれた「私」を、他の者が「わたし」と読んでしまっては、書いた人の意に、沿わないことになります。この反対の場合同じこと。書いた人の意に沿わないで、かた苦しく受け取られることになるといえましょう。
               ×  ×  ×  ×
 こうなりますと、「わたくし」と「わたし」を仮名で書き分けるか、「私」という漢字は「わたくし」だけに限って読ませるのが無難ということになります。
 ましてや、近ごろ流行の「あたし」のような女性語?が、一部の男性にまで愛用され出したのは、やはり、世相でしょうか。こんな言葉までが「私」の訓に割り込んでこられてはたまったものではありません。
 それにしても、ケンカのお好きな代議士諸公が、
 「……と答弁いたされたることは、私(わたくし)は、誠意なきものとして、再び質問を試みんとするもので……」
 などと、「わたくし」や「いたす」のような、丁寧な言葉をしきりに使って、シチムツかしい演説をしてござるのは、チとおかしいではありませんか。これが、国会語?かもしれませんが、こんな庶民離れした、ヘンな国語で得意になられたのでは、聞いていても耳ざわりではありませんか。もし、速記者席に座っていたとすれば、恐らく神経を疲労させて、
脳波が荒らされるのではないかと案じます。
               ×  ×  ×  ×
 国民皆速記の立場になりますと、幾らか弾力性のある考え方をしてもよいのではないでしょうか。
 すなわち、書くときにも「私・わたくし・わたし」と、厳重に区別しないで済ませる場合があり、また、読むときにも、どれにでも通用させるようにして、大きな差し支えはないと思います。
 筆者なども、「私・わたくし・わたし」の3つを、場面に応じて、書き分け、読み分けるようにしております。
 速記文字の書き方としての「上段読みかえ文字」は、「私」を読んで「シ」とし、これを上段に書く略法ですが、これも許される限り、「わたし」をも含めて扱うようにしたいものです。国民皆速記の寛容性から……。
 
第35話〔昭和37年3月号 No.69〕
話の速さを語数で測定する。単位となる“語”とは?
 「人の話の速さをはかる方法」について、これまで3回にわたって私見を述べてきました。話の速さをはかるということは、単位時間における話の分量をはかるということであって、一般的に行われている方法といえば、前述のとおり。
 「話を漢字、仮名まじり文に書き直して、その字数を数えてあらわす」
 ことでありまして、既に、どなたもご承知のことです。
 しかし、これとても、漢字、仮名の用字の方法によって、必ずしも一定の値を得ることができない。そこに、不正確さ、難しさがあることを挙げてきました。このように、この方法は、科学的にいって、必ずしも完全な方法ではないけれども、実際には、便利な方法であるとして、代表的に用いられていると言ってよいのではなすかと思います。
 ほかに、何か、方法がないものか。次にそれを考えてみましょう。
               ×  ×  ×  ×
 B.単語の数を数える方法
 話や文章は、単語が連続してできています。(正確には熟語は区別すべきであろうが、この場合含めて呼ぶことにする)この単語の数を数えるのも、1つの方法です。
 材料として、第31話に載っている、池田総理の施政方針演説を、もう一度使ってみます。
 「この、たび、行なわ、れ、た、総選挙、に、おいて、各、党、は、それぞれ、政治、 に、対す、る、心構え、と、政策、を、明らか、に、し、その、厳粛、なる、審判、を、
 仰い、だ、ので、あり、ます、その、結果、与党、なる、自由民主党、は、国民、多数、
 の、根強い、支持、を、得、わたくし、はふたたび、内閣総理大臣、の、重責、を、に なうこと、と、なり、まし、た、
 ここ、に、決意、を、新た、に、し、て、この、国民、の、信頼、と、期待、に、こた え、たい、と、思います、
  今回、の、総選挙、が、政策、中心、の、論議、に、ともかく、も、終始し、た、こ と、は、わ、が、国民、の、民主政治、の、一つ、の、前進、で、あっ、た、と、思い、
 ます、(これで1分間)
               ×  ×  ×  ×
 ともかく、池田さんの舌を、ずたずたに切ってみました。これによって、単語の数を数えてみますと、
 −1分間、109語−
 ということになります。
 文章を単語ごとに切ること、それは、何でもないようですが、やってみると、容易なことではありません。国文法の先生ならいざ知らず、わたしは、幾つかの参考書をあさりましたが、思案に余る部分が、幾つも出てきました。例えばです−
 「内閣総理大臣」や「自由民主党」は、ここでは1語として数えましたが、果たしてそれでよいのかという疑問が起こります。「内閣、総理大臣」、「自由民主、党」このように切ってもよさそうです。さらに、「内閣、総理、大臣」、「自由、民主、党」のようにしても、
差し支えないように思います。
 また「新た、に、し、て」や「あ、っ、た」などは、もっと縮めてもよさそうにも考えられます。
 こうすると、1語が3語に分かれたり、逆に4語3語のものが、2語1語に縮まったりすることもあるようです。
 このほかにも、どこまでを1語と見るか、研究を要する言葉が、幾らでもあります。池田さんの演説の中から書き出してみましょう。
 「積極的、諸政策、明年度、国際社会、米国大統領選挙、前後8年、日米両国、対外収支改善方策、拠出制国民年金、源泉徴収税額……」
 皆さんなら、どんなに、区切られますか、よい方法がありましたら、お教えを願います。
               ×  ×  ×  ×
 こういうわけで、わたしが、区切った場合はこうなったというだけで、他の人が、また、
わたしでも、少し別な観点から区切り方を変えると、その測定値は、相当増減するに違いありません。
 語数の計算は、お金を数えるように、みんなで幾らと、キチンと数えることは、とても困難です。人により手かげんにより、値に増減があるとすれば、これも、科学的なようでありながら、実際には、大体の目安しかわからない。それが結論のようです。
 外国電報のことは、詳しく知りませんが、料金表を見ますと、何語まで何円というように、語数による料金の算出をしているようです。これですと、だれが計算しても、正しく、
料金が出てくるはずです。もし、国語文でしたらどうなるでしょう。
 また、「某政治家は、何時間にわたり、何万語の大演説」をしたとかの外国ニュースを聞きます。英語やソ連語のような外国語は、その形質から見ても、日本語よりも、科学的、機械的に測定できるように思います。実際にどんなに進んでいるか、日本と比較して研究したいものです。
 
第36話〔昭和37年4月号 No.70〕
話の速さを音数で測定する。精密機械の実用化へ!
 このところ、しばらく「人の話の速さをはかる方法」について、追求してきましたが、今度は、また、別な方法で考えてみることにします。
 C.音(オン)の数を数える方法
 日本の言葉を分析してみますと、「アイウエオの50音」や「いろは48文字」であらわすことができます。が、これだけでは、完全に、音を写すことができない。つまり、「アイウエオ」や「いろは」以外にも、音があるということです。だから、表音の方法に、いろいろな方式ができているのでしょう。
 例えば、前記の50音、48文字の濁音や半濁音、これらは言うまでもないこと。このほかに長く延ばす長音、「ン」のように撥ねる音、「ッ」のような詰まる音、そして「シャ」「ショウ」のような拗音などがあります。
               ×  ×  ×  ×
 ここでまた、池田総理に、登壇を煩わすことにします−
 「こ、の、た、び、お、こ、な、わ、れ、た、そう、せ、ん、きょ、に、お、い、て、か、く、とう、は、そ、れ、ぞ、れ、せ、い、じ、に、た、い、す、る、こ、こ、ろ、が、
ま、え、と、せ、い、さ、く、を、あ、き、ら、か、に、し、そ、の、げ、ん、しゅ、く、
な、る、し、ん、ぱ、ん、を、あ、お、い、だ、の、で、あ、り、ま、す、(以下飛び飛び)け、っ、か、じ、ゆ、う、み、ん、しゅ、とう、じゅう、せ、き、ちゅう、し、ん、しゅう、し、ぜ、ん、し、ん、あ、っ、た」
               ×  ×  ×  ×
 この方法によって、音の数を数えてみますと、
  −1分間 245音−
ということになります。
 これですと、Aの方法(漢字仮名まじり文の字数を数える)のように、文字の用い方によって、音数の増減を来すようなことがありませんから、話の速度をはかるには、その正確さにおいて、最もよい方法ではないかと思います。
 ただ、これではかるとして、漢字仮名のまぜ書きの文を、直接数えることは、とても面倒で、厳密なデータをとるためには、厄介な手数がかかります。調査の性格を期すために、
時にはやってみるとしても、実用には適しないというべきでしょう。
 また、Bの方法(語の数を数える)も、単位となる「語」なるものに、長短があり、話の句切り方にも、不変の法則があるわけではありませんから、やはりCの方法が、比較的、
正確度が高いと断定してもよいでしょう。問題は、実際上、利用しやすいという点にあります。
               ×  ×  ×  ×
 D.話を仮名ばかりで書いて、字数を数える方法
 いよいよ、最後の方法まできました。この場合、片仮名でも平仮名でもよろしい。話を仮名で書きあらわします。そして、その仮名の字数を全部数えるのです。
 例によって、前と同じ池田さんの演説をお借りします−
 「こ、の、た、び、お、こ、な、わ、れ、た、そ、う、せ、ん、き、ょ、に、お、い、て、(以下飛び飛び)げ、ん、し、ゅ、く、じ、ゅ、う、せ、き、ち、ゅ、う、し、ん、じ、
ゅ、う、し」
 これによって測定しますと、
 −1分間 265字−
となります。このところ、電文に似ているようですが、電文では、濁音を2字に数えます。
また、電送の能率上宛て名の仮名遣いは、現代仮名遣いによらず、拗長音を2字てあらわす方法をとっているようです。
               ×  ×  ×  ×
 Dの測定法では、現代仮名遣いによることとします。能率を上げるために、字数を節約するならば、「ショウ」「チョウ」を「セウ」「テウ」または「セフ」「テフ」とすべきでしょうが、それはとらないことにします。
 この方法ですと、何ら判断を要することなく、頭を使わないで、はかることができます。
したがって、だれがやっても、正確な測定値が出てきます。
 けれども、本来「シャ」「ショウ」のような1音のものを、2音、3音に数えるところに、
本質的に見て、科学性を欠くものとしなければなりますまい。
 ですから、拗音を多く含む話は、そうでない話に比べて、仮名に直した字数が多くなるわけです。極端なたとえですが、韓国や中国の、地名人名が、多く出てくる話となりますと仮名に直した字数が、ものすごく多くなってくる。だからといって、話の速度が速いと即断したらどうでしょう。おかしいですね。
 以上、4通りの方法について考えてきましたが、ここでまとめてみますと、
 A.漢字仮名の字数  公認、実際的
 B.語の数      合理的、方法難
 C.音の数      合理的、科学的
 D.仮名の字数    測定の値は正確
 現在、Aは公認として、断然優位にあります。しかし、Bも何とかして実用化したいもの。さらに精密機械の進歩とともに、将来はCが最終最上の位置を占めるのではないでしょうか。
 
第37話〔昭和37年5月号 No.71〕
演説の記録はどんなに仕上げるか。官報や新聞の実例を解剖
 人の話を速記にしたものは、多くの場合、国語文形式に反訳されます。もちろん、「速記素材」そのままを「読み」に供することもできるわけで、「国民皆速記」からいえば、やがてはこうなるべきですが、前途はいまだしと申すほかありますまい。
 そこで、今日の実情から見て、
 1.速記の仕上げは、どのように行われているか。
 2.また、どうあるべきか。
というような題目をとらえて、皆さんと考えてみようと思うのです。
 研究材料として、前から幾たびかお借りしました「池田総理の施政方針演説」をとることにします。これは「速記時代No.65」でも、扱い、そこでは、演説の最初の1分間を載せております。今度は、その次の1分間を材料にすることにしました。
 資料は1官報、2朝日新聞、3毎日新聞、4読売新聞、5日本経済新聞の5種。これらを横に帯模様に並べて表現上の比較が一目でわかるようにしました。句読点1つに至るまで、原文そのままです。どうぞ、ゆっくりご覧ください。
               ×  ×  ×  ×
池田総理の国会演説(一部分)
官報「……多面、それにもかかわらず、選挙自体のあり方についての国民の批判は ま
朝日「……多面、それにもかかわらず、選挙自体の在り方についての国民の批判は ま
毎日「……多面、それにもかかわらず、選挙自体のあり方についての国民の批判は ま
読売「……多面、それにもかかわらず、選挙自体のあり方についての国民の批判は ま
日経「……多面、それにもかかわらず、選挙自体の在り方についての国民の批判は ま
ことにきびしいものがあることも否定できません。私   は、この批判にこたえて、
ことにきびしいものがあることも否定できない。 私   は この批判にこたえて、
ことにきびしいものがあることも否定できない。 私   は この批判にこたえて
ことに 厳しいものがあることも否定できない。 わたくしは この批判にこたえて、
ことにきびしいものがあることも否定できない。 私   は この批判にこたえて、
広く国民の協力を得て 選挙の公明を期する措置を積極的に検討いたしたいと存ずる
広く国民の協力を得て、選挙の公明を期する措置を積極的に検討  したい。
広く国民の協力を得て 選挙の公明を期する措置を積極的に検討  したい。
広く国民の協力をえて 選挙の公明を期する措置を積極的に検討  したいと思う。
広く国民の協力を得て 選挙の公明を期する措置を積極的に検討  したい。
のであります。
(この項は以下省かれている)
総選挙において公約した諸政策は、明年度予算の編成を中核として できるだけすみ
総選挙において公約した諸政策は、明年度予算の編成を中核として できるだけすみ
総選挙において公約した諸政策は、明年度予算の編成を中核として、できるだけすみ
総選挙において公約した諸政策は 明年度予算の編成を中核として できるだけすみ
やかに具体化し、順次国会の審議をお願いいたしたいと考え、目下、鋭意準備を急い
やかに具体化し 順次国会の審議をお願い  したいと考え、目下、鋭意準備を急い
やかに具体化し、順次国会の審議をお願い  したいと考え、目下、鋭意準備を急い
やかに具体化し、順次国会の審議をお願い  したいと考え、目下、鋭意準備を急い
でおります。従って   この際は、当面の諸問題につき  方針を明らかにしたい
でいる。  したがって、この際は、当面の諸問題につき  方針を明らかにしたい
でいる。  したがって、この際は、当面の諸問題につき  方針を明らかにしたい。
でいる。  したがって この際は、当面の諸問題についての方針を明らかにしたい
と存じます。」(1分間)
と思う。」
と思う。」
 こういうように書き並べて、視覚に訴えながら考えてみますと、大体は一致してはいますが、不一致の部分も少なくない、そこがおもしろいところでしょう。
 官報はその使命の上から、一言一句をも、漏らさず、演説の写実に極めて慎重です。(筆者……必ずしもそうではない。慎重の意味が慎重)他の新聞4社は、差異の中にも、共通な点があり、見れば見るほど、興味は深まってくるばかりです。
 
第38話〔昭和37年6月号 No.72〕
題目は本文の縮図。新聞各社に、一字千金の実例を見る
 演説の記録はどんなに仕上げるか、前号に実際例として、池田総理の国会演説を、官報と新聞4社の記事によって並べてみました。大体は似ておりますが、それぞれ特質を発揮しております。すなわち、
 1.官報は一言一句漏らさず、文体も演説そのままに「あります、ございます、いたす、
存じ」を使っております。後日の証拠にもなるもので、「言った、言わない」など、紛争の起こる余地のない記録になっております。
 2.新聞となりますと、文体は「ある、である」調で、「いたす、存じ」も「する、思い」
とします。しかも演説内容は、細大漏らさずでなく、読者に対する関係の軽重により、興味を持つように扱っています。官報の事務的で無味乾燥なのに比べると、新聞はおもしろく読んでもらう配慮がなされ、これも商品の1つであることをうなずかせるではありませんか。
               ×  ×  ×  ×
 演説の内容、つまり本文は、仕上げに取捨、精粗があることは、前述のとおりですが、本文以外さらに、題目のつけ方、要約の仕方など、あらゆる点に苦心を払っています。
 まず、目を引くのは、横書きの大タイトルです。一字千金の磨きをかけた珠玉と言ってよいでしょう。
官報 (なし)
朝日 首相、国会で所信表明
毎日 池田首相、所信を表明
読売 首相、両院で所信表明
日経 首相、蔵相、国会で演説
 この4つのタイトルを眺めてみますと、4つとも、字数が9字であるのは、偶然の一致とはいえ、このくらいの字数が、最も有効なためでしょう。長短よろしきを得、読まなくても1つの視野に入ってきます。
 朝日、毎日、読売の3社が、首相1人に絞っているのに対して、日経だけは、首相、蔵相の2人を並べている。事実ではあるが、平調な感じがします。なお、前記3社は、そろって「所信表明」の文字を使っているのに日経は「演説」としている。これも平凡で、迫力が足りないと言えましょう。
               ×  ×  ×  ×
 次に、題目のつけ方。これには、大文字の大題目のそばに、小文字で副題目をつけています。題目を見ただけで、本文を読まない人も多いのですから、題目のあらわし方に苦心するのは当たり前です。
官報(なし)
朝日 選挙公明化を検討
特需減少、克服できる
毎日 成長政策変えぬ
   ドル防衛」に共同協力 
   公明選挙を積極推進
読売 成長政策変えぬ
   「ドル防衛」試練の1つ
   自由世界全体と協力
   外交、国民の意志を反映
日経 経済政策変えない
   “ドル防衛”の試練克服
 どの題目にしても、よくつかんでいます。いかに簡潔に急所をつかむか。作文の題目など、どうでもよいと考えている人は、大いに学ぶべきですね。
               ×  ×  ×  ×
 大きな演説となると、以上挙げたもののほかに、前文というのがついています。その前文の中に、本文の要約がつけてあります。それは、数項目になって、番号がついていますが、全部を挙げることは省略して、最初の1項目だけを見ることにします。これは、前の号にも扱った、演説の第1段に当たる部分の要約です。
官報 (なし)
朝日 (1)選挙のあり方に対する国民の批判にこたえて、公明選挙のための積極的措
    置を検討する。
毎日 1. 総選挙が政策論議に集中したことは、民主政治の前進であったが、選挙自体
    についての国民の批判はきびしく、これにこたえて選挙の公明を期す措置を積
    極的に検討する。
読売 1. 選挙のあり方に対する批判が厳しいので選挙の公明を期する措置を積極的に
    検討したい。
日経  選挙のあり方について国民の批判にこたえ公明化を積極的に検討する。
 ここで、一番短い割に、うまく要約しているのは、日経ではありませんか。見れば見るほど立派です。
               ×  ×  ×  ×
 最後に、本文の中に、挟んである小題目を比較してみましょう。
官報 (なし)
朝日 ケネディ政権と緊密化期待
   AAグループと交流を強化
   福祉国家に経済成長不可欠
   国民年金制度改善して実施
毎日 弾力性ある外交を
   共産圏とも相互理解
   補正予算、公約の一歩
読売 公明選挙の措置検討
   米との友好を緊密化
   所得格差解消へ前進
日経 (なし)
 この見出しは本文を読み取る上に大きな役割を演じています。これも文章をまとめるよい参考です。
 
第39話〔昭和37年7月号 No.73〕
無味乾燥な国会議事録、親しみやすい官報の編集を望む
 演説や講話の速記を、国語に反訳することが、速記士の任務であることは当然と言ってよいでしょう。しかし、反訳したままの素材−中味そのままでは、これを利用する上において、すこぶる不便と言わねばなりません。
 そこで、題目をつけたり、文段を区切ったり、句読点を加えたりすることが、必要となってきます。大きな記録や重要な記録となりますと、題目も大中小などと細分されたり、文段に題目や第1、第2などの序数を入れたりします。
 演説する人は、題目や序数を発音してもいないのに、仕上がった記録にはチャンとそんなものが加えられているのです。シャベリもしなかった、頼みもしなかったのに、反訳文に、余計なことをしていると言われればそれまでのこと。実際上には、これが、どれほど重宝な役割を果たしているかわかりません。
               ×  ×  ×  ×
 こういう点から考えてみますと、演説記録の最高権威ともいうべき、官報の国会議事録は、何としても、無味乾燥と言いたくなります。一字一句は漏らさず載っているかわりに、
題目さえも、ロクに書いていないではありませんか。
 「国務大臣の演説」と書いてある次に、議長が「内閣総理大臣から所信について発言を求められております。これを許します」だけです。
 その後、大臣登壇、すぐ「このたび……」と演説を始めています。その議事録は、すべて、同じ大きさの活字 −9ポでギッシリ押し詰まっています。大きい活字が目を引くという変化は、全くなく、平々坦々どこが山やら平地やら、高姿勢がどこにあるのか、どこでヤンヤと言わせたのやら、一向つかみどころがありません。針でつつくように、一々順々に目を通して探すほかありません。
               ×  ×  ×  ×
 官報の議事録が、「記録のための記録」(多分にその理由がある)であってみれば、それで事足りると申せましょう。
 「おれは、こういうことを質問して言質をとっている」
 国会報告とやらに、みずからの国会での(小さな委員会を含めることはもちろん)活躍?ぶりを、尾ヒレをつけて、地方に吹聴するのは、多くの代議士の常トウ手段。その証拠書類を複製するための原本が、国会議事録というわけです。会議の後に、「言った、言わぬ」
の論争の解決にも、議事録はよく引き合いに出されます。にもかかわらず、官報を見ることによって、会議の全貌をつかむことは、なかなか困難です。もし、これを、目を皿にして読むというなら、それは、特殊な目的を持ってのことでしょう。
               ×  ×  ×  ×
 官報には、なぜ親しめないのでしょうか。官報も、「国民の公器」であってみれば、味も香りもしない記録に安住して、能事終われりとしていては、余りにも、チエが足らな過ぎるではないか。かつ、お色気のないことおびただしいと評するに、私は、少しも遠慮をいたしません。過去数十年の伝統をかたく守ってきた官報は、今こそ、旧態依然たるカラを破って、新しい編集をしてもらいたい。新しい時代感覚の国民は、こんなものに何らの魅力を感じないどころか、その存在さえ知らない者が大部分でしょう。戦時中の「週報」は、
今にしてみれば、随分、ウソとムリの押し売りをしましたが、さすが、戦争への真剣さがあっただけに、記事に多少の張り合いがあったように思う。それに比べると、今の官報は、
全く血が通っていない。私は「週刊雑誌」には、余り興味も信頼もしていませんが、官報は、こんなものでも検討して、家庭で読まれるような勉強をするがよい。
 それにしても、国会議事録に、仮に、次のような見出し、
 「池田総理、得意の数字で応酬」
 「政府の高姿勢に、野党沈黙」
とでも書けば、政府与党は満悦でしょうが、マイナスになりそうな、
 「野党の追求に政府窮地に陥る」
 「野党食い下がり、政府の答弁区々」
などと、題目をつけたりすると、議事録の責任者は、たちまちお目玉となること必至。官製議事録の改正には慎重さが足手まといになるようです。
               ×  ×  ×  ×
 思いのままに、大分、官報の攻撃に走ってしまいました。ウソも上手も知らない、品行方正の子供を愛想が足りないといって責めているようで、お気の毒に思います。
 殊に、議事録の素材となる演説を営々と速記しておられる第一線の人々に対しては、私も人後に落ちぬ理解を持っているつもりです。ましてや、速記した素材の、編集過程などは、さらに、他のポストの人が担当しているのでしょうから……。
 専門技術者でない一般国民としては速記をある程度覚えたとすれば、これを日常生活に取り入れて、未熟ながらも、速記すれば、記録もつくる。編集などもやるようにしたい。これが、国民皆速記の行き方ですから……。
 
 
 以上が「国民皆速記」における基本的な考え方である。発表をされてから44年の歳月が経っているが、小林清次さんの「国民皆速記の運動!」は「国民皆速記」について苦具体的に書かれているので、現在でも十分に通用をするのではないだろうか。
[ Top ]