私と中根式
中根式の誇り
川田 秀幸
中根速記協会機関誌:速記時代(昭和34年3月号)より
初めに……何のことはない、ちょうど帽子のそれのように、ちょこんと香川県支部の頭に乗っけられている私であるが、仮にも支部長という名がついているためか、“速記時代”に何か書け書けと勧められてきた。ところが、議事速記や一般速記事務のほかに、議長の祝辞やら、あいさつ等の雑文を一手に引き受けている関係で、いいかげん作文にはくたびれているので、これまで遠慮してきたが、ことしは、何となく書いてみたくなったので、思いつくままに、いつまで続くかわからないが、書き綴ってみたいと思う。中根先生を初め先輩諸兄に文中あるいは失礼に及ぶ段があろうかと思いますが、私の中根式に対する尊敬、愛着、誇りといったもののゆえからと御寛容いただき、行き過ぎの点は暮夜ひそかにご叱正を賜りたいと思います。
中根式何だ!
中根式何だ!……と肩をそびやかすまではなくとも、中根式に対する誇りが私にもある。 昨年10月の第10回全国記録員研修会における調査資料によると、全国の県・市議会の方式別速記者数は
都道府県議会(148人 20方式)
中根18人 衆議院16人 早稲田16人 参議院14人 熊崎9人 佃8人 他は5人以下
市議会(474人 32方式)
中根106人 早稲田103人 衆議院36人 参議院28人 熊崎26人 佃21人 米田10人 他は10人以下
という現状で、随分と中根式が多い。中根式は“国民を文字のドレイより救え”の言葉のもと速記の大衆化という大使命を担って殊に正雄先生が、これまで幾十年、先生の印されていない土地はないというほどに全国を啓蒙して回られており、学生速記界の90%は中根式で占められている等々、私の中根式速記と中根諸先生に対する尊敬と誇りは大きいのである。
だが……?!
だが……、私の中根式に対する誇りが大きければ大きいほどに、高ければ高いほどに、反面、その、ひとりよがりに対する疑問が生じてくる。
他式が、どう批判しようとも、この符号で、しかも学生が1分間に400字、あるいは500字も書くじゃないか。速記者の速記じゃない。中根式は、学生の、そして国民の速記だと。だが……?!何だ。
中根先生、先輩諸兄ごめんあそばせ
中根式は、学生の、そして国民の速記だから、その入門の入り口は、狭き門ではなく、入りやすい広い門であることが第一で、専門速記者のそれのように複雑高等な理論をこね回すことはないという。入り口が広く開放されていても、その次の段階で、特に地方の独習に近い状態の人々は、戸惑ってはいないだろうか。また学生といっても、島国四国の高校生でさえも、学生学生といってナメるわけにはいかないようだ。いわゆる、物の用に立つようにしようと思えば、現状の入門書解説書程度では、余りにも複雑な言葉の符号化に困ってしまうものではないか。なぜ、中根式の学生速記界の指導者を集めて、より充実した指導書をつくらないのだろう。少なくとも、他式に先駆けて、国民の速記を提唱する中根式が。
さらに符号研究の面(主として専門速記者のためのものであるが、今日の高校生は、これに迫ってくる)についても、現状で十分書けるんだから、何式にしたところが一長一短だし、この国の言語表現が、理想的に簡単に符号化できるものではないのだから……という。
ところで、在来の各種速記方式を対照し、研究したといっても、我が国の速記の歴史そのものでさえわずか80年。その中で、体系的、科学的に、統一された機関で符号研究が進められた例があろうか。せいぜい10年、20年の速記歴を持つにすぎない一個人の(門下生というモルモットは数多くとも、それを集約するのは、ごく限られた小人数でしかない)研究で、もう速記の研究はこの程度以上に出ないと即断するのはまだ早かろう。あるいは、日本語の表現が複雑で、容易に理想的な符号化は望めず、研究の成果は五十歩百歩で、際限のない符号いじりは、もうやめた方が賢明だというのは、どうしたことか。
四国でも高知県議会の徳平基喜氏(中根森派)は、特異な研究をされている。某方式に負けたくないために、また中根式(森派のためではない)に対する誇りのゆえに。また、我が香川県支部の植田(※裕)君も、符号いじりが好きで最近では基本符号の分野まで手をつけ、曲線書体に魅せられて(彼なりの言い分はあろうが、ステノ創刊号を参照されたい)、1人悦に入っている。全国には、たとえ、まとまりはなくとも、種々な符号研究(符号いじりというのが適切ではあっても)が、個々にされている。これら日の当たらない符号研究に、堂々と発表する場を与え、それを統一された機関で再検討して体系的にまとめれば、公約数的な理想に一歩近い符号への発展が期されるのではなかろうか。下手に研究発表でもしようものなら、分派をたくらむ野心家扱いをされそうで、新興宗教のように、中根先生が、その教祖のように、ただ無批判に信奉されるというきらいがあっては大変だ。 このようなことを書くと、香川の連中は、ウヌボレているんじゃないか、と一笑にふされようが、植田君が指導する高松商高の速記部が、全国大会で連年優秀したからとて、私ども慢心してはいない。必ずしも同一水準にない学生速記界で高松商が比較的熱心だったというにすぎないことだから。
(以下次号に)〜香川県支部長〜
速記普及と合理的経営について
−友野先生の“大臣と少年速記”をめぐって−
川田 秀幸
中根速記協会機関誌:速記時代(昭和34年4月号)より
友野茂三郎先生(明治23年帝国議会開設の当初より衆議院の速記をとられた方)の古希を記念して刊行された“速記雑観”(昭和12年)に、次のような一文が載っている。
大臣と少年速記
昭和10年8月27日の読売新聞紙上に次のような意味の記事が写真入りで載っておった。「あっぱれ日本一という速記の兄弟が松田文相にお目通りした」という書き出しで、去る26日芝協調会館で催された速記競技大会で優勝した福岡市奈良屋尋常小学校5年の石村善助(11歳)と同3年の善治(9歳)の兄弟が文部大臣の前に呼ばれて手練の速記をしてみせた。最初1分間200字程度で見事に及第、次に小学校読本巻の7、加藤清正のくだりを300字の程度で大臣が読まれると兄の善助はやっと書けたが、弟は半分めちゃくちゃだ。2人を引っ張ってきた中根正世氏は面目なさそうな顔をしたが、大臣は初めのができたから偉いものだと言って愛嬌をふりまいた云々。
この記事は何を物語っているか。
まず芝協調会館の速記競技大会とはどういうものか知らぬが、いやしくも競技大会ともあろうものが9つと11の子供に優勝されたなどというに至っては、
小人国の夢物語にでもありそうな話で、そのことが既にこっけいじみているが、それは別として、もとより子供が大臣の前へ出て速記をしてご覧に入れ
たいと言うはずもなし、大臣が少年の速記を見たいとおっしゃるわけもない。いずれはこういうことを新聞に書いてもらって何かに利用しようとする魂胆から
出発していることは察するにかたくないが、ただこのごとき無意味のことを大臣閣下これを察せず、新聞社これを知らず、世間また興味を持ってこれを迎えている
ことはいかに我が速記なるものが世間に理解されておらないかを雄弁に物語るものであって、我々の痛歎にたえないところである。言うまでもなく速記は碁将棋や
絵画のような興味本位のものではない。人の言葉を書き取って普通の文字に書き直す文化的技術である。ゆえに相当の知識と判断力がなければできない仕事である。
現に両院の速記練習所は入学者の資格を中学卒業者と限定している。しかもこれは最低の限度であって、実際の速記に従事する場合にはもっともっと高級の知識を
要することは無論である。しかるにいかに秀才にもせよ神童にもせよ10歳前後の少年に速記を習わせ、これが10分間に300字(※原本でも「三百字」となっている。3000字の誤植か?)
書けたとしたところでそれが何の役に立つか、もしここに珠算の巧みなる少年があるからと言ってこれを大臣の前に連れていって、さてこの少年はそろばんの珠を弾く
ことは巧妙でありますから1つお試しください、ただし1つも当たりませぬと言ったら、大臣は目を丸くして驚かれるであろう。それとこれと何の違いがあるか。
珠算の目的は珠を弾くにあるのではなくして答えを得るにある。速記もそのとおり、書くだけでは速記ではない。書いたものを訳さなければ役に立たぬ。
訳す力がなければただいたずらにそろばんの珠を弾くと同じである。そろばんには別に知識は要らないであろうが、速記に至っては相当の知識なくしては絶対にできない。
ただ強いて理屈づければ、早く速記を覚えておいて知識の発達を待つと言えるであろうが、速記とか語学とかいうものは日々必要があって繰り返しておればこそ上達もするが、
10歳前後の少年に速記を覚えさせて、常識のできるまで10年間も忘れさせずにおくなどということができるわけのものではない。もしもかの新聞記事を見て10代の小学生徒が
我も我もと速記に志して中根某氏の門前に蝟集(※いしゅう)したら、ご当人は我事成れりとして満足するかもしらぬが、それが何の意味をなすであろうか。
単に無意味であるばかりでなく、小学教育上からも黙過できない問題である。一体日本語速記はその業自体がなかなか困難であるがために、
速記者として働かずに速記教授の看板を掲げて、世間が速記に対する理解がないのに乗じて、短期間卒業の好餌をもって、速記講習というよりはむしろ速記行商のごときことを
職業としている者があって、ほとんど全国中等学校をあさり尽くしているということである。この新聞記事のごときそれらの手段に利用されなければ幸せである。
これまでに、私は、この一文を何度か読み返している。そして、このような批判、非難を浴びながら、中根式の名を今日の高きに至らしめた中根先生初め諸先輩のご苦労をしみじみと感ずるのである。
中根式の創案発表は大正3年であるから、この一文の書かれた昭和10年のころは中根式の苦難多き時代であり、まだまだ中根式の真価を発揮するまでに至らなかったころである。新しいものに対する、古いものの側からのこのような批判は、世の常であり、速記界の大先輩の友野先生にして、速記の一部面のみに偏したこの一文ありと、私は、遺憾に思い、かつ、今日の全国高等学校中根式速記競技大会の盛大と充実ぶり、さらには、専門速記者の数においても、最も数多い速記方式の1つに上げられることに、今昔の感を深くするものである。しかし、私は、この一文が、いわゆる、ためにする新方式に対する非難ではなく、今日なお、私どもの味読するに値する一文であると考える。たとえてみれば、全国各支部主催の速記競技大会はもちろん全国大会における反訳文の用字の誤り不正確さを初めとする問題点(句読点、その他)などは、まず対処しなければならないことの第一である。 ところで、石村さんは、その後、立派な速記人となられていることはもちろん、「速記行商として全国の中学校をあさり尽くした」中根正世先生(改名して正雄)は、戦後、今もなお、速記行商的全国高等学校の講演行脚を、あえて進められている。“国民を文字のドレイより救え!”の道はまだ遠いが、ようやく、その実を上げつつある。専門的な速記とは、また別に、学生速記、国民速記の道を切り開いたのは、我が中根式なのだ。その誇りは高い。まこと「速記行商」に落とすことなく、これからも中根先生ともども、私たちは、速記の大衆化に向かって尽くさなければならぬ務めがある。
だが、ここでもう1つ、考えねばならぬことがある。それは、近ごろ流行の経営学とまではいかなくとも、経営の問題である。
孜々営々と幾10年、速記行商を続けられた中根先生は、どれほどの財産を貯えられたことか。皆さんの、よくご存じのところであろう。どこかの国の総理大臣のように、野党から、汚職ではないかとにらまれて、財産の公開を迫られる人もあろうが、中根先生の財産を公開しても、金銭的、物質的な蓄財は、まず、ないと言うことだろう。あれだけ全国各地をお回りになられながら、その土地の名勝旧跡を知らないという。香川県に来られても、講演に次ぐ講演で、屋島に行ったこともない。2度、3度と来られてである。一体、中根先生は、そうした楽しみのない人なのだろうかとさえ思われる。事ほどさように、ひたすら速記普及に尽くしてこられた先生である。その財産は、私が前号にも、ちょっと紹介した、全国にわたる中根式で立つ専門速記者と中根式を日々の記録事務に利用する数多い人々が、財産なのである。
しかも、中根先生が、雲やカスミを食って生きている仙人でない以上、相応の収入を得て、それによって生活を支えねばならぬことは当然である。かつては、東京都での全国大会に参加する選手を、私費をもって招かれたという。だが、先生が億万長者や仙人でない限り、こうした奉仕が、いつまでも続くものでもなければ、それまでしていただいて、大会に参加する選手の気持ちも、決して、明るいものではなかろう。そこに、講義録売らんかな主義の営利専一に落としてはならぬが、経営の問題がある。どうも中根先生のやっていることを見ていて、いわゆる武士の商法的なものがあるようだ。ただ単に先生のお人柄を尊敬する人々とのつながりにおいて、ようやく中根速記協会を維持し、先生の生活を営んできていることは、おかしなことである。中根先生に望むのではない。私どもが協力して、合理的な経営の軌道に乗せる働きがあっていいのではないか。合理的な経営による収入を持って、より積極的な中根式の大衆への普及と発展を期すべきであると思う。速記の普及一筋に生きてこられた中根先生は、昨今、ご家族の将来について、ひそかに心配されていると、ほのかに私は聞いているが。
(香川県支部長)
中根速記学校あれこれ
川田 秀幸
中根速記協会機関誌:速記時代(昭和34年5月号)より
九段下ビル内・中根速記学校とある東京の中根校は、どんな立派な建物の学校なのかと、学生時代の私は、夢にも、その九段下ビルを描いていたものである。ビルというからには、5階6階の高層建築であり、その建物の幾つかの室を教室としている中根校の設備は整った立派な学校だと、1人決めしていた。
その中根校を初めて私が訪ねたのは終戦後の昭和25年であったと記憶している。中根校のある九段下ビルというのは、3階建の古ぼけた建物で、3階にある2部屋の教室と、その教室の1つの一部を仕切った事務所までの通路は、薄暗く、殊に階段の手すりは、戦争中の金属回収に取られたままで、かわりの木製のそれもないという様子だった。途端に、私の中根校の幻想は、雲散霧消してしまった。およそ、ビルとか、速記とかいうものから受ける近代的な感じとは、全く逆なものであった。
中根校を初めて訪ねての第一印象は全く私を失望させてしまったが、その後、毎年上京のたびごとに、時間がとれれば、中根校に寄せてもらっている間に、この学校に次第に言い知れぬ親しみを感じるようになってきた。年を重ねるにつれて、いろんな懐かしい思い出の数がふえてゆく。正世先生が高松にお見えになった折りの懐旧談、洋子先生から、妹にお土産をいただいたこと、速記発表70周年記念式典で熊崎式の熊崎健一郎翁、ガントレット式のエドワード・ガントレット氏とともに創案者として名誉ある表彰を受けられた正親先生が、その感激を語られたときのこと、池田(※正一)先生と新発田市の宮村(※嘉吉)さんとの釣竿の話、江森(※武)先生との雑誌問答等々思い出は、懐かしく、楽しく尽きるところを知らない。そして、私は、まだ一度も、中根校で学ばれる皆さんに直接面と向かって話したことはないのだが、いつも壁越しに、教室の空気に接して、面識のない皆さんとも既に深いつながりがあるように思えて仕方がない。
ところで5月といえば、中根式の創案が、大阪毎日新聞を通じて世間に紹介された記念すべき月であるが、京都の森卓明氏が発行していた、速記研究の昭和6年5月15日号に、開校して、やっと満2年を迎えた中根校の参観記が載せられている。これを書いている津山さんは、京都在住時代よりの中根式の同志、東野清之、土井保之助、津山隆、角道和三の4氏で「十一日会」を組織し、毎月11日、中根校で茶話会を催していたということ、また慈恵医大へ勤務、時折、難しい医学速記の反文(※反訳の意味)に脳漿を絞られていたし、奥さんの節子さんは、経過順調で今、明日中に出産の予定、男子の出生を希望し、学齢に達したら速記を教えるつもりだと言ったことも、同誌上に記されている。ことしも、5月10日の中根式発表記念日を目前に控えて、昨年、中根校を訪ねた折り、ごちそうになったアマザケの、あのアマずっぱい味を思い出しながら、この一文を読み返して、私などの知らない中根校草創のころをうかがうものである。
速記研究 昭和6年5月15日号
東京速記教授所参観記
−中根速記学校−
津山 隆
東京府認可中根速記学校は、神田九段下ビル内にあり、昭和5年5月開校、中根正世氏を校長としている。毎月1日に新期生を募集し、学生科3カ月、普通科6カ月の期間にて中根式速記法の一般を教授し、希望者はさらに進んで研究科へ入っている。授業料月5円である。いずれも最初の1カ月に方式に習得させた後は、速度及び反文の練習をしている。現在4〜50名の講習生があり、おのおのその獲得速記によって等級をつけ、午前10時ごろより午後9時まで2時間ぐらいあての練習をしている。
中根校長在京中は校長の指導を受けているが、速記講演普及のため、地方出張中の不在のときは、古参者が教授代理をしている。創設以来数100名の男女講習生を出し、実際速記事務家(※1)として働いている者も10数氏ある由。
学校は、学生街の神田区(※2)、しかも九段下の電車通りに面して一般大衆の目につくところにある。しかし電車(※3)、自動車等の騒音のため朗読の聴取、速記練習に多少の妨げあることは免れない。
なお同校主催の速記大会は来る5月29日朝日講堂において盛大に開催されるはずにて事務当局者はこれが準備に忙殺されている。また速記文字展覧会も市内(※4)百貨店において近く開催される由。
大正3年5月10日、大阪毎日新聞によって中根式速記法が江湖に紹介されてより満17年、昭和2年11月その著書(※5)が正世氏によって出版されて約5年、いよいよ発展に向かいつつあり。
ことしは、開校30周年の記念すべき年であり、また全国高校速記競技大会も25回目という意義深い年でもある。先に発表40周年を送り、中根式の前進ますます盛んなもののあることは、喜ばしい限りである。
※1 実務家の意味。
※2 現在の千代田区。
※3 昭和45年5月ごろまで靖国通りには路面電車が通っていた。
※4 当時は東京市神田区といっていた。
※5 通俗中根式速記法。
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