速記士法案

                        ※原文のまま(漢字のみ新字体)
「日本速記百年史」
速記士法案の審議
 全国大会の決議とそれに続く日速協の活動は、翌昭和八年、第六十四議会における二つの議院提出法案にまで発展させることができた。その一つが、前回に審議未了となった「刑事訴訟法中改正法律案」の再提出であり、もう一つが「速記士法案」であった。「速記士法案」の第一条には、次のようにうたわれていた。
 第一条 速記士ハ速記士法ヲ用ヒ法令ニ依ル文書ノ作成ヲ為スコトヲ業トスルモノトス
 それは法令による文書の作成に限定されたが、その最大の目標は裁判速記であった。そして、とにかく速記士試験があり、それに合格して初めて速記士となり、速記士名簿に登録される。速記士の資格を持たずに速記士の業務を行った場合には罰せられ、速記士も業務上の不正行為、秘密漏洩などに関し罰則の適用を受ける、という内容の全十一条に及ぶ法案であった。ここに速記者の資格と責任に関する法律が、ようやく成立への第一歩を踏み出した。
 しかし、この両方案とも、第六十四議会においては審議未了に終わった。翌9年の第六十五議会に再び提出された際に、ようやく衆議院を通過することになった。その際「速記士法案」の方に、弁護士会のような速記士会に関する規定二カ条が追加され、全十三条に改められた。また、無資格者の業務に科する罰則も、六月以下の懲役が削られ、千円以下の罰金だけとなった。しかし、両方案とも貴族院において審議未了となり、その後はついに提出に至らなかった。こうして、速記界長年の希望も、当分の間、実現の可能性を失うことになった。もっとも、裁判速記そのものは法律的に認められていたから、昭和十年の帝人事件公判のように、開廷二百六十五回、延べ九百七十時間に及ぶものでも、被告側において速記を付する場合が見られた。しかし、当局としては、書記の作成しない速記録を調書とすることも、書記に速記を習得させることも、早急には実現困難だとし、これに熱意を示さなかった。
 
「日本速記年表」
大正15年3月22日
 第51議会の衆議院に、「速記士法制定ニ関スル建議案」(黒住成章外2名提出)が提出されたが、混乱裏に閉会となったため上程に至らなかった。
 
昭和8年3月9日
 第64議会の衆議院に「速記士法案」(金井正夫外2名及び中山福蔵外3名から格別に提出、速記法を用いて法令による文書の作成をなすことを業とする者の資格及び責任等を規定したもの)が上程され、委員会で審議未了となった。
 
昭和9年3月16日
 第65議会の衆議院に「速記士法案」(内藤正剛外1名及び平島敏夫外1名から格別に提出、前年の第64議会のものと同内容)が上程され、20日、両案を併合1案として可決された。(貴族院は審議未了)
 
「日本速記五十年史」(日本速記協会・昭和9年10月28日発行)
 
速記士法制定に関する努力
 速記士法制定のことは速記界多年の懸案であるが、之が協会に於て問題となつたのは大正十五年の春頃からである。即ち同年の第五十一議会に於て黒住代議士が速記士法制定に関する建議案を提出したのに其端を発し、協会幹事会に於ては之に付き協議の結果、当時問題となつて居つた裁判速記進出に関する運動と共に、之を佃与次郎、森田章三、安田勝蔵、中島忠寿、大河内発五郎の五名の特別委員に付託して是が実現を期することになつた。其後十年の間、或は委員の会合に於て、或は幹事の会合に於て、更に全国速記者大会に於てと、之に関する研究、協議は屡々行はれたが協会としては逐に今日まで全速記界を満足さすに足るべき纏まりたる成案を得るに至つて居ない。理想案としては種々なる案もあるが、イザ実行案となると、速記界各方面より賛否の論囂々として一致を見ないのである。併し過渡的便法は便法として、畢竟遠からざる将来に於て、全速記界の地位の向上の為に速記士法の制定を見るに至るべきは必然のことであらう。
 尚ほ速記士法案に付ては前記黒住代議士の建議を初めとして、其後第六十四議会に於ては議院提出法律案として政民両党より同文の法案が提出せられたが一回の委員会にて有耶無耶となり、次で第六十五議会に於ても亦同様政民両党より法律案として提出せられ、今回は衆議院は本会、委員会共に修正の上通過するに至つたが、貴族院に於て審議未了に終つた。
 右の如く速記士法案が議会の議に上ること約十カ年の間に三回である。此前後十カ年間に於ける該案の研究に付ては速記界幾多の先覚者の努力もあるが、就中森田章三の努力は見遁すべからざるものがある。但し該案其ものに付ては幾多の論議はあるが、茲には単に形に現はれたる速記士法案の、一の歴史的事実として、第六十五議会に於て衆議院を修正通過せる提案理由書と共に採録して置く。
 
速記士法案理由書
 輓近速記ノ利用ハ日ニ月ニ其ノ範囲ヲ拡大シ今ヤ社会文化ノ一様素トシテ欠クベカラザル地位ニ在リ就中帝国議会ヲ初メ道府県会又ハ市町村会等ハ勿論各官公署ニ開カルヽ公ノ会議、公私ノ組合銀行会社ノ総会等ハ概ネ速記ニ依テ其ノ議事ヲ録取シ更ニ裁判訟廷ニ於ケル各種ノ記録ヨリ進ムデハ私権ニ関係アル文書ノ作成ニモ盛ニ利用セラレムトスル趨向ニ在リ是等ノ速記ハ或ハ公ノ秩序ニ関シ或ハ貴重ナル言論ヲ永久ニ伝ヘ或ハ財産権利等ニ重大ナル関係ヲ有スルモノニシテ其ノ記録ハ絶対ニ精確公正ヲ確保セザルベカラズ然ルニ現在之ガ速記ニ従事スル者ノ資格責任等ニ関シテハ何等公ニ之ヲ規律スルモノナク単ニ速記者ト称スレバ玉石混架セラレ為ニ動モスレバ速記ノ本質ヲ誤解セラレ其ノ真価ヲ認識セラレザルノ憾アリ加フルニ今後文運ノ進化ニ伴ヒ速記ノ対象トナルベキ事項ハ益複雑多岐ヲ加ヘ之ニ従フ者ノ教養素質亦充実向上ヲ要スルモノ切ナルニ拘ラズ其ノ地位ガ社会的ニ公認セラレザル現状ニ有リテハ斯道ニ志ス者モ亦前途ノ光明ヲ認メ難ク其ノ結果ハ延テ世ノ進歩ニ追随シ能ハザルニ至ラムコトヲ慮ル此ニ於テカ国家ハ如上公共ノ秩序其ノ他国民ノ権利ニ多大ノ関係アル部門ニ従事スベキ者ノ資格及責任ヲ法定シテ其ノ地位ヲ公認シ以テ重要記録ノ精確公正ヲ期スルト共ニ将来速記ニ志ス者ニ確乎タル目標ヲ与フルハ現下ノ実情ニ鑑ミ将又我ガ国文化ノ発達ノ為ニ喫緊ノ急務ナリト信ズ是レ本案ヲ提出スル所以ナリ
 
速記士法案
 第 一 条 速記士ハ速記法ヲ用ヒ法令ニ依ル文書ノ作成ヲ為スコトヲ業トスルモノトス
 第 二 条 速記士タラムトスル者ハ左ノ条件ヲ具フルコトヲ要ス
      一 帝国臣民ニシテ民法上ノ能力ヲ有スル成年以上ノ男子タルコト
      二 速記士試験ニ合格シタルコト
      速記士試験に関スル事項ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
 第 三 条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ速記士試験委員ノ詮衝ニ依リ第二条第一項第二
     号ノ規定ニ拘ラズ速記士タル資格ヲ有ス
     一 貴族院又ハ衆議院ノ速記者養成所ヲ卒業シタル者ニシテ三年以上速記ニ関
      スル業務ニ従事シタル者
     二 貴族院又ハ衆議院ノ速記技手以上ノ職ニ在リ又ハ在リタル者
 第 四 条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ速記士タル資格ヲ有セズ
      一 禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル者但シ二年未満ノ懲役若ハ禁錮ニ処セラレ
       タル者ニシテ刑ノ執行ヲ終リ若ハ其ノ執行ヲ受クルコトナキニ至リタル日
       ヨリ起算シ三年ヲ経過シタル者又ハ陸軍刑法若ハ海軍刑法ニ依リ一年未満
       ノ禁錮ニ処セラレタル者ハ此ノ限ニ在ラズ
      二 前号ニ該当スル者ヲ除クノ外第十三条ノ罪ヲ犯シ刑ニ処セラレタル者但
       シ刑ノ執行ヲ終リ又ハ其ノ執行ヲ受クルコトナキニ至リタル日ヨリ起算シ
       三年ヲ経過シタル者ハ此ノ限ニ在ラズ
      三 破産者ニシテ復権セザル者
 第 五 条 速記士タラムトスル者ハ速記士名簿ニ登録ヲ受クベシ
      速記士ノ登録ニ関スル事項ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
      速記士ハ其ノ業務ニ関シ速記士ノ称号ヲ用フベシ
 第 六 条 速記士ハ主務大臣ノ監督ニ属ス
 第 七 条 速記士ハ速記士会ヲ設立シ其ノ規約ヲ定メ主務大臣ノ認可ヲ受クベシ其ノ規
     約ヲ変更セムトスルトキ亦同ジ
 第 八 条 速記士会ハ速記士ノ品位ノ保持及速記事務ノ改善進歩ヲ図ルヲ以テ目的トス
 第 九 条 速記士タル資格ヲ有セズシテ速記士ノ業務ヲ行ヒタル者ハ千円以下ノ罰金ニ
     処ス
 第 十 条 速記士タル資格ヲ有スルモ其ノ登録ヲ受ケズシテ速記士ノ業務ヲ行ヒタル者
     ハ五十円以下ノ過料ニ処ス
      非訟事件手続法第二百六条乃至第二百八条ノ規定ハ前項ノ過料ニ付之ヲ準用
     ス
 第十一条 速記士本法若ハ本法ニ基キテ発スル命令ニ違反シタルトキ又ハ品位ヲ失墜ス
     ベキ行為若ハ業務上不正ノ行為アリタルトキハ主務大臣ハ速記士懲戒委員会ノ
     議決ニ依リ之ヲ懲戒ス
      速記士懲戒委員会ニ関スル事項ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
 第十二条 速記士ノ懲戒処分ハ左ノ四種トス
      一 譴貴
      二 千円以下ノ過料
      三 一年以内速記士ノ業務ノ停止
      四 速記士ノ登録ノ抹消
      前項第二号ノ過料ヲ完納セザルトキハ主務大臣ノ命令ヲ以テ之ヲ執行ス
      非訟事件手続法第二百八条ノ規定ハ前項ノ規定ニ依ル執行ニ付之ヲ準用ス
 第十三条 速記士又ハ速記士タリシ者故ナク其ノ業務上取扱ヒタル事項ニ付知得シタル
     秘密ヲ漏泄シ又ハ竊用シタルトキハ一年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
      前項ノ罪ハ告訴ヲ以テ之ヲ論ズ
  附  則
 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
 本法施行ノ際引続キ一年以上速記ノ実務ニ従事シタル者ハ本法施行ノ日ヨリ六月以内ニ
出願シタルトキニ限リ第二条第一項第二号ノ規定ニ拘ラズ速記士試験委員ノ詮衝ヲ経テ速
記士タル資格ヲ有ス
※以上が幻の「速記士法案」である。漢字のみ新字体を使用したが、「速記士法案理由書」は第1字目から読むのに漢和辞典を引かなければ読めない漢字が出てくる。高校時代に戻ったつもりで、古典の授業を思い出しながら漢和辞典を引きながら読んでもらいたい。
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